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五感の喪失を細かく見る

2010年02月11日 | 読書
 2002年に読んだ『五感生活術』(山下柚実著 文藝春秋)は印象的な新書だった。

 当時、教師向けのメールマガジンに感想を書いた記憶がある。

 感想を読み返してみると、「五感」というテーマをどう教育活動に生かすかという視点だったのだなあ、ということがわかる。

 上述した新書のもとになっている『五感喪失』(山下柚実著 文藝春秋)という本をたまたま見つけ、読んでみた。
 1999年刊の単行本である。
 著者のノンフィクションライターとしての力量を感ずる好著であった。結果的には、人間の生というものを五感にスポットをあてて突き詰めたと言っていいかもしれない。

 テレビなどで見聞きしたことはあるが、ボディピアスに関する第二章は結構衝撃的である。
 「感覚の暴走」と名づけられた括りではあるが、痛みを伴う度を越した刺激でしか、生の実感を得ることしかできない若者の生態をどう見るか…。
 『蛇にピアス』という小説を読んだことはないが、2004年にそうした作品が賞に輝くのは、ある意味必然だったのかもしれないと思う。

 流行を取り入れて満足している者にとっては、一時期の経験でしかないだろう。しかしその行為を突き詰めて考え、感じてしまう者にとって、一体「生」とは何か、という根本の問いがつきまとっている。
 ああ受け入れ難い世界と思う。

 興味深かったのは、「コンピュータ世界が喪失する五感」と副題が名づけられた第十章の、「字体」のことであった。
 教科書に「ゴチック体」の文字が登場するようになったことを受けて、専門家への取材等を通し、それが単なる活字が置き換わったことでないと強調する。

 書き手の感覚を含みこみ、書き手の筆づかいや読み手自身の身体感覚を呼び起こす仕掛けを持った「文字/道具」が、身体の感覚とは無縁な「記号/単線」に置き換わった、ということだ。
 
 デジタルの中にもアナログ的な要素が入り込んでいることがある。
 その意味はいったいなんなのか、そういう要素が知らず知らずのうちに消滅していくことは何を衰退させていくか、もっと細かくみる必要がある。