すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

含羞。何を隠すか。

2010年02月22日 | 雑記帳
 土日は体調を崩し、ずっと居間で寝ていた。
 読書する気力もわかず、もっぱら録画しておいたままになっている映画やドキュメンタリーなどを見た。

 建国記念の日にBS-hiで放送した井上陽水の特集があった。なんと5時間モノである。

 今まで放送した2番組の再構成らしい。まだ全部見終わらないが興味深いことがいくつかあった。

 私の井上陽水体験は、高校時代がもっとも強く、その後はそれなりという感じだが、あまり興味を持てなかった時期(勤め始めた頃からしばらく)の陽水の「動き」がとても面白く感じた。
 つまり、後になって知ってはいたことだが、阿佐田哲也との交流である。そしてそれを取り巻く様々な、少し危うい?といっても良いような人たちとの交流である。黒鉄ヒロシがいて、沢木耕太郎がいて、伊集院静がいて…。

 伊集院静が、阿佐田哲也と井上陽水の共通点をこんなふうに語ったところが興味深かった。

 日本人にしかない含羞 

 含羞か。
 はじらう、はにかむ…近頃の日本人が失くしている心の一つだろうが、そう考えると含羞は地球上から消えかかっていることなのか。

 そんな心配はともかく、伊集院のこの解釈をどうとらえればいいか。
 私なりに考えてみると、「隠す文化」と言ってもいい日本社会の中で、何を隠すかはとても重要なことだ。二人が似ているというのは、隠す対象が似ているのではないかと想像する。

 自分、本心、いやそんな大きく漠然としたものでなく、細かく具体的なある意識に関して「明かさない」「隠す」「正体を遠ざける」…といったことのように思う。
 中味が同じならば、当然その仕草や立ち振る舞いは似てくるだろう。

 自分は何を隠しているか…とぼんやり毛布の中で考える。

 ああ、それにしても『傘がない』は、90年代の名曲『最後のニュース』と本質的に同じなんだなあ、そんな思いが浮かんでは消える。