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平等神話を抱えたままか

2010年02月16日 | 読書
 採用されて三年目だったろうか、陸上競技大会への引率を断ったときがある。出場する子どもは去年と同じであり参加するメリットは低いし、それよりは学級で授業をするべきだと考えたからである。
 当時はそれが平等だと思い、そんなことばかりしていたように思う。
 
 次の学校にいって二年目だったろうか、組合青年部の活動がもとになりサークルらしきものを始めた。その最初に取り上げたテーマは「一人も残さずに後ろ回り(マット運動)ができるようにする」ことだったと記憶している。
 当然、向山実践「全員に跳び箱を跳ばせる技術」に大きな影響を受けての設定だった。

 ちょうどその頃、同年代の同僚がこんなことをつぶやいた。
「人間は生まれながらにして不平等だ。じゃあ、学校はその不平等を縮めようとするのか、広げようとするのか。」
 その時まで考えてこなかったことで、自身の不明さをずばりと言われたようで、深く心に刻まれた。

 北海道の堀先生がブログで絶賛した『教育と平等』(苅谷剛彦著 中公新書)を読み終えた。

 「平等」は自分が若かった頃の実践や行動を振り返ってみるときの重要なキーワードだ。
 そういう自分の考えが構築されてきた土壌、背景、歴史といったものが見事にあぶり出されていると感じた。
 我々は今どこに立っているのか、それを世紀レベル、国家レベルで見当をつけるには不可欠な著書だろう。もちろん10年レベル、県レベルのところはきちんと自ら探り出す必要のあることだ。

 自分はまだ「平等神話」を抱えたままなのではないか…という思いを持ってしまう。
 様々な施策についての自分の見方が硬直していると感ずることと無関係ではない。
 変化が激しい時流を言い訳にその意味を知ろうともせずに退けていないかと自問する。

 変化への無知は暗黙の支持を意味した。
 
 著者が書いたこの一言にドキリとする。