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「私」の上昇ということ

2010年02月20日 | 読書
 家本芳郎先生の著した『私語・おしゃべりの教育学』(学事出版)を読んだ。1990年の発刊である。
 著者が言いたいことは、あとがきに記された次のことと解してよいだろう。

 私語は、撲滅するのではなく、その私語を切口に、私語の「私性」を、子どもと教師ともどもに共有できる「共有語」に上昇させていくこと、すなわち、新しい「公語?」を創造する作業でなくてはならないのである。
 
 この文章を書き写してみると、主語省略になっているのだが、間違いなく「私たち教師の仕事は」とか「学校でなすべきことは」という言葉であろう。

 20年経った現在、そういう方向に向けた数多くの実践が出てきているように思う。
 私語の中に存在する子どもの興味や思いを顕在化させ、それを学習に結びつけようという動きは確実に現れている。

 それらの基になっているのが、この本の考えなのかどうか浅学の自分にはわからない。
 しかし少なくても、今でも驚くほど、子どもたちに対して詳細な見方、多様な関わりを提示している本であるのは確かだ。

 私語から授業をつくる
 「私」の上昇訓練
 
 言葉の強さを感じる。従って古くて新しい課題とも言える。

 「私語は止めなさい」と言われ従ってきた世代の一人として、そういう注意はそれなりの公私をわきまえる訓練にはなっていたのだと思う。
 今、その注意の言葉だけで通用しない時代ではあるし、それが訓練になる要素も減ってきているだろう。
 であればこそ、教える者の役割をもっと意識する必要がある。

 例えば、服装などの問題を指摘された某五輪選手は、「自分のスタイル」をずいぶんと強調した言葉遣いをしていたが、その「私」が上昇しているように私には見えなかった。
 周囲で反省するべき者は数多いのではないか。