すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

時を経ても生きる言葉

2010年08月07日 | 読書
 昨日私たちの会で行った国語教育講座後半のパネル・ディスカッションのために、本棚から古い雑誌等を紐解いたが、しばし読みふけってしまったものがいくつかある。
 メモとして残しておきたい。

 模擬授業で『一つの花』が取り上げられるということで、本当に多くの実践例や記録があるものだと驚く。その中にこんな古い雑誌が目を引いた。

 『現代教育科学 1986.3』 特集 いま授業づくりで何を問うか
 ~同一教材(今西祐行「一つの花」)による授業の比較~
 
 
 『国語教育誌』でないところが凄い。二十数年前である。

 日本教育方法学会の公開シンポジウム記録となっている。
 提案者(授業者として記録を発表)として、大木正之・大森修・加藤憲一の三氏の名前がある。大雑把だが、一読総合法・分析批評(法則化)・文芸研と分けられるだろうか。

 86年と言えば、教育技術の法則化運動が広がりを見せ始め、その考え方や運動等に関して、批評・批判が盛んになった時期である。
 このシンポジウムでも一番焦点化された討議は、大森氏が出した結論「『一つの花』は、四年生の分析にたえられない」をめぐってのことだった。シンポジウムで異彩を放つのが大西忠治氏の発言。実践に根づいた研究者 としての重みを感じた。

 ここでの議論の明確なまとめはなかったが、一ついえるのは「正確に読みとる」ことの強調である。
 今の時点ではしごく当然なこのことでさえ、当時一流と言われた実践者の授業においてもないがしろにされた部分もあったということである。

 その意味では、時代が着実に言語技術教育へ向かうための一つのポイントであったのかもしれない。
 
 「授業づくり」がテーマであったが、どうしても文芸を読む力の方に論が偏っているように思えた。
 その意味で総括として、司会の大槻氏が「内容の読み取り」「読み方」「学習集団」という三つの目標の絡ませ方の検討を課題に上げたことは、現在でも生きる視点だと考えた。

 主催者である吉本均氏が語った、書きとめておきたい言葉がある。
 
 共体験

 「感動は教えられない」…その論には賛成する。
 しかし感動のもととなり得る物語への共体験を作り出していく言語技術こそ、文学教材の持つ価値を引き出すのではないか。