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背筋を伸ばして語る言葉

2010年08月30日 | 読書
 『利他の教育実践哲学~魂の教師塾』(野口芳宏著 小学館)
 
 先月発刊されたばかりの本である。内容は『総合教育技術』誌の連載と講演記録1本ということで構成されている。

 この著書にも、そして先生の講演の度に、かなりの頻度で登場するのが次の言葉である。

 「根本 本質 原点」
 
 自分のやっていることが本当に子どもの教育としてふさわしいのか、時折疑問が渦巻くことがある。その度に「この現状でいいという理由づけ」をどこかに求めようとしている自分に気づく。
 曰く「今までやってきた価値があるはずだから踏襲するのが自然」「周囲の状況を考えたときに妥当な線」「様々な影響を考えたときにこれが無難」といった思考で…。

 語義として全て否定的な意味だと思わないが「踏襲 妥当 無難」という言葉は、日常に汲々としている自分の形容かもしれない。

 根本は何だと力んでみても今の立場では出来やしない、たかが知れている、といった具合に投げ出していないだろうか。
 本質を探ろうとしても、時間が少ない、周囲が求めていることは体裁だから形を作ればよい、などという思考に陥っていないだろうか。

 だからと言ってそもそも器の小さい者が、多くを抱えていこうなど大それたことを考えているわけではない。
 出来るだけのことを、ねらいを絞って、しかしこの線だけは譲れないと、小さい声でも明確に言うべきことはあるはずだろうと思う。

 その姿が人の眼には奇異に見えたり、無謀に思えたりすることは避けられないのかもしれない。
 いや、そうでなければ、今「根本 本質 原点」を考えているとは言い難い。それだけ奇妙な空気と思考が充満している世の中だと思う。
 しかし卑屈にならず、進んでいきたいと願う。
 そのためにはまず目線を上げて、姿勢をよくすることだなと一人納得する。

 だって「根本 本質 原点」を語る師匠の背筋はいつだってぴんと伸びているではないか。