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夏休み読書メモその5

2010年08月20日 | 読書
 最近、こんなにページの端を折った本はない。

 『街場のアメリカ論』(内田樹著 文春文庫)
 
 教授独特の言い回しが、まえがきから全開している。

 記号とは「それが何であるか」を言うものではなく、もっぱら「それが何でないか」を言うものである。
 
 えっ、なになに!と目を見張ってしまうが、読み進めるとなんだか見事に納得させられてしまう。それは記号だけのことでなく、自分のアイデンティティーについても同様だと知ると、実に深いことなのである。
 疑いもしなかった、いや考えてもみなかった表現に溢れていて、なかなか読む速さが上がらなかった。

 第一章は「歴史学と系譜学」。ここでも南北戦争や明治維新のことを引き合いにして、私たちのありがちな思考を、ぐらぐらと揺すぶり続けてくれる。

 誰がいても誰がやっても「同じ政策」が採択され、今ここにあるような日本になっていただろうと決めつけるのは、ずいぶん自己中心的な発想だし、今ある日本の状態を固定化する考え方につながるんじゃないかと思います。
 
 「歴史に『もしも』はない」という言い回しは、誰に向かってどういう場面で言うべきことなのか注意しなければならない。
 それはある意味で、観察も、決断も、希望も封じ込める表現であり、現実を生きる者にとって意味を為さない、いや有害だと言うべきか。

 二章以降も、ジャンクやコミック、統治システムなどそれぞれに面白かったが、なんといっても第六章「子供嫌いの文化~児童虐待の話」は、目からウロコであった。

 つまりは、子ども観の違い。
 アメリカでの児童虐待の現状など不勉強で知ることもなく、またその歴史的背景など及びもしなかった。
 そういえば、ヨーロッパにおける児童の不当就労の実態もマルクスが革命を志した一因だったことは以前にも読んだ気がする。

 当時の子供という概念、その存在に対する親や大人の心性は、今の私たちとはかけ離れたものである…そうした認識を持つと、「文明」的な装置として、子どもの無垢性の神話が語られたり、子どもの人権について叫ばれたりしているのではないか、という教授の話も納得がいくのであります。