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牧歌的に語れ…ない

2011年01月22日 | 雑記帳
 人が集う学校空間は、本来、牧歌的でなければいけない

 全連小(全国連合小学校長会)会長向山行雄氏の言葉である。いわば、全国の小学校教育現場のトップがこう語った。
 自らの高校時代の旅の思い出を述懐しながら、呟くように記された言葉はなんとも重い。
 多くの教職員も心の底では同感なのではないだろうか。

 「牧歌的」の意味にこだわれば、「素朴」「叙情」という二つの要素がある。
 つまり現状は、複雑であり虚飾めいていて素直に感情を出せない(ことが多い)となる。一様ではないが外れてはいない。

 その原因を、歴史や様々な施策に求めるのは簡単なことだが、単なる繰り言にしかならない。いやそれもある程度腹を決めてかかれば、力にはなるだろうが、そんな度量もないなあ。政策レベルで語ることはやはりそれなりの立場の人にお願いすることとし、ここはひとつ、牧歌的に現状と傾向を述べてみよう。

 学校現場で「牧歌的」と称してもよいことを考えてみると、一見ねらいが明確でなく、効率性が低く、時間を浪費しているように見える言動と言えるだろう。
 ほんの一例としては、廊下でのおしゃべり、ぼんやり外をながめる、口笛をふいて歩く、様々な人や物事を大らかに受け入れる、学級楽しみ会、すぐ役立つというわけでない実技研修、地域で流行っていることなどの世間話…
 これらに類する行動の頻度によって、その学校の牧歌性が決定する。おそらくその度合いは、地域性、学校規模、管理職の潔癖性、職員の牧歌的資質?などによって要因づけられる。
 現状としては全国的に下落傾向にあり、それは様々な教育施策が功を奏し、教育公務員としての自覚が高まっていると評価されることもできよう。事業仕分け的観点からも非常に好ましく、努めてこの傾向を推進、維持していくことが肝要である。

 …怖い結論になった。おまえはどこかの官僚か、と自分突っ込みをしたくなる。

 制度や施策に背を向けていくことはできない。しかしそれをどこか客観的にとらえる感覚は失いたくないと思う。高みとまではいかないが、ずらして見るような習慣とでも言おうか。
 そうすれば、学校に降りかかる雑多な問題も職員個々のことだって、少し柔らかくなって感じるのではないか。

 組織に牧歌性を求めることは所詮無理だ。
 個の心の中に見いだすしか、手はないのである。
 ありきたりの結論となった。