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教育の「ガラパゴス化」という表現

2011年01月09日 | 雑記帳
 先日参加した研修会で配布された「研修趣旨について」という1枚資料の末尾に面白い表現があった。

 秋田の国語教育を「ガラパゴス」化してはいけない

 「ガラパゴス化」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%91%E3%82%B4%E3%82%B9%E5%8C%96
と括っていいと思うが、そこに何か深い訳でもあるのだろうか。
 いずれにしても単純に考えれば、県内だけで小さくまとまらず広く目を向けて発展させたい、という意味なのだろう。

 しかし、言語の教科である国語教育を語るとすれば、もう少し突っ込んでその意味を探ってみてもよくないか。
 
 つまり、「ガラパゴス化」が教育という範疇において使える用語なのかが一つ。
 そして、使えるとすればそれは悪いことなのかどうかという点である。

 自分がガラパゴス化という意味を知ったのは、確か「ガラパーケータイ」という言葉を目にしたときだった。なるほど上手い表現だなと感じたが、まあ製品や市場の概念という印象だった。

 それが教育の世界でも使われるとは考えていなかったが、大学教育に関しては様々な発言をする人がいて、キャリア教育、人材育成という面でも確かに当てはまるような気がした。
 その意味では、具体的な例としてある特定の「教育課程のガラパゴス化」という表現は通用すると考えられる。

 では「秋田の国語教育」ではどうか。
 ちょっとこれに当てはめるのは難しい気がする。
 何を指しているのかが不明確だからだ。目的なのか、方向なのか、具体的な実践なのか…それらを包括した全体なのか、だとしたら法規や指導要領との関わりはどうなのか。
 
 では仮に全体的な取り組みととらえてみて、「ガラパゴス化」は悪いのだろうか。
 グローバル化の波が押し寄せてきていることは実感しながらも、そこで必要とされている力を表面的にとらえないで、じっくりとローカルに学ぶことだって必要ではないか。

 ずっと以前から、地方に教育委員会のある意味を問い続けてきた自分にとっては、いわばガラパゴス化は積極的に進めるべき考えのようにも思う。

 そして、そもそも「標準」とは何かという問題にも突き当たる。
 学力テストトップと称賛され、特に「国語の秋田」と題された雑誌特集もされるほどである。いわば「日本の標準」は秋田にあると言っていい。
 あっ、そうか。問題なのは「世界標準」でありこの国の標準ではない。そうすれば、この国の標準たる秋田の動きは、世界標準なのかガラパゴスなのか決定する大きな要素になるわけか。
 なかなか、深い(深読み過ぎだろっ)。

 最後に付け加えると、どうしても「市場」的な感覚が残る表現なので、繰り返し使っていてあまり愉快でないのは確かだ。