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「あの日」からのことを考える本

2012年03月05日 | 読書
 『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(高橋源一郎 河出書房新社)

 高橋源一郎の本は読んだことがなかった。
 「詩のボクシング」の解説者,古くは競馬番組の司会?などのイメージしかないのだが,まあ相当な?小説家らしいということは,なんとなくわかっていた。

 この本は,前半がツイッタ―上にアップされた「日記」で,後半が雑誌等で書かれた「文章」(の一部分)という構成になっている。「あの日」とは,言うまでもなく3.11である。

 「はじめに」に次のように記されている。

 ここには,「あの日」から,ぼくがツイッタ―上に「放流」した「ことば」も,それ以外の場所で書いた,作家としての「ことば」も入っている。

 どちらの「ことば」もよく似ているとして,こんなふうに結ばれている。

 それらの「ことば」は,以前よりもずっと,あなたたち読者に届けばいいのにと強く思って,話されたり,書かれたりしている。

 作家がこんなふうに書く必要はないのかもしれないが,その直截な表現には惹かれるものがあった。

 後半もいいのだが,ツイッタ―で放流された前半の方が,より響いてきた。
 「小説ラジオ」と銘うって一つのテーマで連続ツイートしたいくつかは,自分の心の中にもある靄をはらってくれるような気さえした。

 「祝辞」⑰ 「正しさ」の中身は変わります。けれど,「正しさ」のあり方に,変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は,じつは簡単です。けれど,「正しさ」に抵抗することは,ひどく難しいのです。

 「分断線」⑤ 本来,誰よりもも共に戦うべき人たちの間に引かれてしまう,見えない線がある。見える線を挟んでの応酬は,どれほど厳しいことばが行き交っても,ある意味で健康だ。誰と誰が対立しているのか明らかだからだ。だが,見えない線を挟む沈黙の応酬は暗い。無言の嫌悪の視線がそこにある。

 このほかに,「祝島」と題された連続ツイートの中に書かれたことに,自分の人生観を揺さぶられる記述があった。
 怖くて表に出さないまましばらく抱えておくべきかと思っているほどだ。

 そこで取り上げられた「祝の島」という映画を観てみたいと思うし,昨年書かれて話題になった著書『恋する原発』などを手に入れて,少しずつ読み進めていきたい。

 生意気なことを書けば,感性が近い人かなあと想像したりする。
 そもそも高橋源一郎を読もうと思ったのは,敬愛するU氏やI氏絡みで(なんでイニシャルか?)よく登場するからだった。
 共通して流れる空気にこのまま染まっていくことが嬉しいような,怖いような…。