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混乱脱出のバネになるか

2012年03月13日 | 雑記帳
 一週間ほど前の地方紙文化面に、本県在住の北条常久氏が「話しことば教育の礎」と題して二日間にわたって文章を寄せている。

 北条氏には『標準語の村』(無明舎出版)という著書があり、遠藤熊吉に関わる話し言葉の研究で名高い。
 今回の論考にも、なかなか面白いことを書いていらっしゃる。

 本県が全国学力テストで好成績を上げている理由として、次のことを挙げられている。

 秋田県民は生活の中で、自分たちが寡黙であることの不利に気付き、「話すこと」を教育の中心に据えてきた。・・・(中略)・・・・
 話しことば教育が、本県の教育全体を底上げしたといえよう。


 その面の研究者としてこうした仮説を抱くのは当然のことかもしれない。また本県で授業を視察した教育関係者の多くがその話し合いの活発さを話題にすることはよくあるので、まんざらその論が的外れとは言えないのかもしれない。

 しかし、しかしである。

 次の文章がある。

 本協議では、次の視点で「公の場で自分の考えを積極的に発言できる子ども」をどのように捉え、自校の教育目標の実現に向けた学校経営に結び付けるのか考えていただきたい。

 これは、新年度早々の協議会の内容予告の文章である。
 本県では「『問い』を発する子ども」というフレーズを昨年打ち出して、授業改善の方向づけをしているのだが、次のように説明している。

 『問い』を発する子どもとは・・・「公の場で自分の考えを積極的に発言できる子ども」

 としている。この解釈がどうなのかは棚上げして、いずれ「積極的に発言できない」ことを重要課題にしているのは間違いないのである。

 とすると、先の北条氏の論と照らし合わせると、おそらく次のような問題点が想像できる。
(教室も十分「公」なのだが)「教室や仲間内では活発に発言しても、それ以外の公の場においては消極的である、意欲が見られない」
 これはおそらく大半の教師が持っている思いだろうと予想できる。

 単純に「活用」を推進すればいい、といった短絡的なもの言いをしていいものか。
 いわば,そうした大雑把さが少し頭打ちな状態?を作り出したとも言えないか。

 調査結果から、仮に、本県教育が底上げされた状態と見えるのであれば、その先を目指すために広範囲に見渡して事項を拾い上げてみなければならない。
 発達段階にそった重点化をもっともっと意識するべきではないか。到達する姿があまりにまちまちで、指導自体がぼやけているという印象を持つ。
 もう一つ大きく,教員自体の問題があるが,それはまたいつかということで。


 かの遠藤熊吉が推し進めた標準語教育は、女中奉公や出稼ぎにいっても困らない子を育てた。北条氏は次のように文を結んでいる。

 ことばの教育が、貧困脱出のバネであった。

 そんな単純な将来ではないと認識している。
 しかし、バネになるくらいに力強いものを育てるのが、この仕事の本懐でもあろう。
 今の世の中に当てはめれば「混乱脱出」と言いきってもいいかもしれない。