すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

震災にからんでみる意味

2012年03月29日 | 読書
 『恋する原発』(高橋源一郎 講談社)

 読み始めるとすぐに,マッタクイッタイコレハナンナンダ,ナンデコンナモノヲ…と際限なく言いたくなってしまう冒頭部分(だけじゃなく,いろいろな箇所)がある小説である。

 えっ高橋源一郎って一応純文学ではなかったか,そんなことはどうでもいいが,何の価値があってこのようなことを書くのかと少しばかり怒りが湧き上がってきたり,あまりのくだらなさに笑いがこみ上げたり…。


 しかし,そのうちに,すごい表現が出てくる。
 ヴィデオ作りの相談をしているときに襲ってきた地震。このやりとりに唸った。

 「まだ揺れてる」おれはいった。
 「ずっと揺れてたんだよ」会長はいった。「何十年もな」
 「ほんとですか!気がつかなかった!」
 「鈍いからだよ」会長はいった。


 誰しもあの地震と津波には驚いた。そして原発事故にも。
 その驚き,怖れをどう昇華できたのかが問われている気がした。


 「震災文学論」と銘打たれて,小説のストーリー(まあないようなものだが)に関係なく入れ込まれた論考は,実に深く染みわたる。カワカミヒロミ,ミヤザキハヤオ,イシムレミチコ…それらの引用も巧みだ。

 科学技術をコントロールすることが不可能なのではなく,人間の愚かしさをコントロールすることが不可能である

 人間の「汚れ」そして「浄化」ということに思いが向くが,あまりに大きすぎてまだ咀嚼できないでいる。
 噛み砕いても,きっと自分は文学に真っ向から入っていけないだろうとも思う

 それはつまり何かと言えば,この本の中に書かれている次のことだ。

 「順番」の問題

 震災にかかわって,「服喪」「追悼」を第一にしないで,発言できる意味を深く考えてみよう。
 そしてそれは,きっと自分たちの日常にも深く根付いてしまっている。