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やはり行動で引き寄せるしか

2012年03月22日 | 読書
 『人生の作法』(鍵山秀三郎著 亀井民治編 PHP)

 ここまで徹底できるものかと、ある意味で圧倒される。
 昨年、近くの市へいらして講演会が企画されたが、別に主催する会があったので参加が叶わなかった。この著を読み,ぜひ一度は拝聴したいという気持ちが一層高まった。

 鍵山氏の名前は多くの人が知っているし、「掃除道」とも言うべきその信念と実践は名高い。その生き方の全体像がまとめられている本といっていいかもしれない。

 編者はこう後書きに記している。

 徹底した他者への配慮

 まさしくその通りであるが、この「他者」は目の前の他者だけでなく、今生きているすべての他者に対して向けられているものだ。
 もちろんそれは現実的には不可能なことだし、普通であればそのようなことを書けば、臆面もなくそのようなことを書けるものだと、偽善者と侮れかねない。

 しかし、ある意味で淡々と記された著者の心構え、生活ぶりを読み取ったとき、「所詮無理なことを…」と考えてしまう心の狭さこそ責められるべきだと感じてしまう。
 結局何ひとつできないまま、利己的な因子で染められている自分こそ哀れに思えてくる。

 ここに、自分もできることから一つずつ、限定して取り組んでみようと心がけを語ることはたやすい。
 しかし、そういう安易さの中に逃げ込むことも後ろめたく思える。

 では何をする…。

 こう問いかけてみて、出来ることのあまりの多さと、逆に、続けていくことの困難さに、思わず動きが止まってしまう。
 企業の相談役が日常のほとんど全てを利他的な行動で徹底する揺るぎなさは、こんな自分に本当に想像可能だろうか。

 自己主張の大切さや自分を表現することの重要性が、日本の社会や学校で今ほど叫ばれたことはないだろう。
 それは認めるにしても、何のためかが身体化されていないければ、それこそ身についた形が心を滅ぼすのではないか。

 手遅れの身体を持つ者は、やはり差し当たって行動で示すしかない。

 行動が引き寄せるものに期待して、著者の次のことばを噛み締めてみよう。

 変わるべきは、まず自分。その第一歩は、「いまから」「自分から」下座に降りることです。