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五月にはごろごろある

2012年05月01日 | 読書
 ブータンブーム?もあり,「幸福論」が流行っているようだ。
 興味ある分野だが,単行本を揃えて読むほどではない。軽く雑誌で読み流す程度である。そんななかで,久しぶりに買った「プレジデント」誌の冒頭論文がなかなか面白かった。

 奈良雅弘という方が「頭の中にひそむ『幸せ泥棒』撃退法」と題して記している。

 そもそも幸福とは何なのか?と切り出して,「福」「幸せ」「幸い」との比較を辞典の記述から解説しているところが,いかにも自分好みである。

 そこから読み取れる他の感情(喜びとか怒りなど)との異質性として,次の二つを挙げているところがわかりやすい。

 持続時間  総和性

 そう考えると,震災後に特に強調された気がする「ふつうの幸せ」とか「当り前のことができる幸せ」という言い方は,明らかにそうした「比較的長く続く生の肯定的感覚」としての感情にあたるだろうなと,妙に納得した。

 幸福のかたちとして,次の二つがあるという見方もなるほどだ。

 達成型  偏在型

 そして,日本人の多くは「達成型」を求め,そういう道を歩んできたが,まさしく壁にぶち当たっている。次の分析は確かであろう。

 資本主義の最先端をいくがゆえに,いち早く直面することになった,近代的な「幸福なかたち」の限界。それこそが,「欲求の満たしにくさ」や「負の感情への陥りやすさ」を生み,日本人の不幸感を高めている

 形づくりの型を言い換えれば,「なる幸福」と「ある幸福」。

 目指すべきは決まっているのだが,それを決定付ける二つの構造,つまり社会と自分の思考がそれを許すか。
 まあ,自分の思考ならば工夫次第だと,言いきってしまおうじゃないか。

 「ある幸福」のかけらなら,どこにだって転がっている。

 五月にはごろごろあるような気がする。