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与えられ続けてきたツケ

2012年05月12日 | 読書
 「感動」という言葉からの連想として,国民的人気があった?某首相の「感動した!」がすぐに思い浮かぶ。同様の人も多いだろう。
 もう一つ仕事がらみで言えば「感動は教育できるか」という問いがある。
 国語教育の場に分析批評が勢いをもって登場したとき,この言葉のインパクトは強かった。
 あれから長い時間が経ったが,それぞれはどのような決着をつけているのだろうか。

 『「感動」禁止! ~「涙」を消費する人びと~』(八柏龍紀  ベスト新書)

 珍しい名字の著者はなんと秋田県生まれの学者さんであった。

 「感動をありがとう!」はおかしい,とまえがきに記してある著者の問題意識は,共感できることが多かった。
 団塊世代が生まれ育った時代から現代に到るまでの社会認識について,特に目新しい見方が示されたようには思わないが,その流れに,いわば「感動」のデフレ状況を位置づけたので,なるほどなるほどと読めた気がする。

 結果として今世の中(特にマスコミを通じて)で流される「感動」というものの変質,いや根本的には「感動」という言葉で括ってはいけない感情や気分で満たされているだけに過ぎないのだということを改めて考える。
 それはうすっぺらで,刹那的,表面的である。そういう自己本位のレベルになっている。まさに,消費文化によって肥大してきた一つである。

 自嘲的になるが,その意味で「感動は教育できる」。
 正確には,「感動に似た気分は,教育できる」。
 もっと細かくは「感動に似た気分は,情報誘導できる」。
 (あまりにも短絡的か)

 年齢的にもう涙腺が弱くなっているので,ドラマや音楽で仮にそうした状態に陥っても,別に感動しているわけではないと,もう一人の自分は冷静に見ている。
 しかし,だからと言って,そんなふうに見分けがついたとしても,本物の感動が近づいてくるわけではない。それもわかっている。

 著者はこうまとめる。

 まずは,共有する情感や意思を織りなす糸が必要だろう。いま求められていることは,自己と他者とを結ぶ言葉の回復なのだ。

 言うは易し,である。
 まだその前に行うべきことはあるような気がする。
 自己の情感や意思について,もう少しじっくりと内面視したり,日常自分が使っている言葉を点検してみたり…。
 安い情報の垂れ流しにつき合っている時間を削ることから始めるべきか。

 感動は商品ではない。
 商品価値のなかに,感動に結びつく要素があるだけで,自らの感性で引き寄せるしかない。
 与えられ続けてきたツケがかなり溜まっている身体だという自覚が必要だ。