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からだに読み書きさせる

2012年05月02日 | 読書
 予定よりひと月遅れの読了となってしまった。
 一部で評判の高い著書だったが,たしかにその通り,ずしんと手ごたえのある一冊だった。

 『視写の教育 ~<からだ>に読み書きさせる』(池田久美子 東信堂)

 視写は,乏しい自実践の中でも少しは腰を据えてかかった分野である。
 ひとつは,青木幹勇先生に学んだ,読解の授業過程への位置づけを通してである。もう一つは家庭学習との連動を図った学力向上策としてである。

 いずれにしても,視写でどんな力が育つか,その時点でぼんやりと見えていたものが,この著書によってすっきりとしたような気がする。

 著者は,大学教師のキャリアしかないようであるが,あとがきを次のような文章で締めくくっているではないか。

 「今,子どもの書字経験がめっきり減っている。小中学校でこそ視写が必要なのだ。」
 本書がこの危機感に応え,小中学校での視写教育を考えるための一助になれば幸いである。


 この観点で考えていくためには,時間がかかりそうだ。
 しかし取りあえず,自分の中にとどめておきたい文章を引用しながら,考えをメモしておきたい。

 視写は,他人(ひと),つまり視写する文章の書き手とのコミュニケーションである。

 この前提は大きい。コミュニケーションの取り方は多様であり,そこに活動のねらいが生まれてくる。

 直接,鉛筆やペンを持ち,紙に書きつけていく意義を今さら繰り返すまでもないと思うが,筆者の表現は本質をついていると思う。
 キーボードの打鍵ではなぜ駄目か。このように記している。

 <筆触>を無用にした代償は大きい。それは文章に対する無自覚を生む。そしてまた,その無自覚を発見する機会を奪う。

 これを学習させるために必要なことは,この著書から言えば,量的な保障,形式の設定となっている。これは小中生でも同様だ。

 学習活動としてどう具現化するかという点についての原則が,不足なく書かれている本だと思う。

 作者の主張は,副題として添えられている「<からだ>に読み書きさせる」ことだ。<からだ>と括ってあることは目,指,手を中心とした感覚を通して,身体内部に知識や理解,意欲や態度を養っていくことを表わしている。

 学びの身体化へのアプローチは数々あるが,その中で視写はもっと重視されていいと改めて強く思った。