予定よりひと月遅れの読了となってしまった。
一部で評判の高い著書だったが,たしかにその通り,ずしんと手ごたえのある一冊だった。
『視写の教育 ~<からだ>に読み書きさせる』(池田久美子 東信堂)
視写は,乏しい自実践の中でも少しは腰を据えてかかった分野である。
ひとつは,青木幹勇先生に学んだ,読解の授業過程への位置づけを通してである。もう一つは家庭学習との連動を図った学力向上策としてである。
いずれにしても,視写でどんな力が育つか,その時点でぼんやりと見えていたものが,この著書によってすっきりとしたような気がする。
著者は,大学教師のキャリアしかないようであるが,あとがきを次のような文章で締めくくっているではないか。
「今,子どもの書字経験がめっきり減っている。小中学校でこそ視写が必要なのだ。」
本書がこの危機感に応え,小中学校での視写教育を考えるための一助になれば幸いである。
この観点で考えていくためには,時間がかかりそうだ。
しかし取りあえず,自分の中にとどめておきたい文章を引用しながら,考えをメモしておきたい。
視写は,他人(ひと),つまり視写する文章の書き手とのコミュニケーションである。
この前提は大きい。コミュニケーションの取り方は多様であり,そこに活動のねらいが生まれてくる。
直接,鉛筆やペンを持ち,紙に書きつけていく意義を今さら繰り返すまでもないと思うが,筆者の表現は本質をついていると思う。
キーボードの打鍵ではなぜ駄目か。このように記している。
<筆触>を無用にした代償は大きい。それは文章に対する無自覚を生む。そしてまた,その無自覚を発見する機会を奪う。
これを学習させるために必要なことは,この著書から言えば,量的な保障,形式の設定となっている。これは小中生でも同様だ。
学習活動としてどう具現化するかという点についての原則が,不足なく書かれている本だと思う。
作者の主張は,副題として添えられている「<からだ>に読み書きさせる」ことだ。<からだ>と括ってあることは目,指,手を中心とした感覚を通して,身体内部に知識や理解,意欲や態度を養っていくことを表わしている。
学びの身体化へのアプローチは数々あるが,その中で視写はもっと重視されていいと改めて強く思った。
一部で評判の高い著書だったが,たしかにその通り,ずしんと手ごたえのある一冊だった。
『視写の教育 ~<からだ>に読み書きさせる』(池田久美子 東信堂)
視写は,乏しい自実践の中でも少しは腰を据えてかかった分野である。
ひとつは,青木幹勇先生に学んだ,読解の授業過程への位置づけを通してである。もう一つは家庭学習との連動を図った学力向上策としてである。
いずれにしても,視写でどんな力が育つか,その時点でぼんやりと見えていたものが,この著書によってすっきりとしたような気がする。
著者は,大学教師のキャリアしかないようであるが,あとがきを次のような文章で締めくくっているではないか。
「今,子どもの書字経験がめっきり減っている。小中学校でこそ視写が必要なのだ。」
本書がこの危機感に応え,小中学校での視写教育を考えるための一助になれば幸いである。
この観点で考えていくためには,時間がかかりそうだ。
しかし取りあえず,自分の中にとどめておきたい文章を引用しながら,考えをメモしておきたい。
視写は,他人(ひと),つまり視写する文章の書き手とのコミュニケーションである。
この前提は大きい。コミュニケーションの取り方は多様であり,そこに活動のねらいが生まれてくる。
直接,鉛筆やペンを持ち,紙に書きつけていく意義を今さら繰り返すまでもないと思うが,筆者の表現は本質をついていると思う。
キーボードの打鍵ではなぜ駄目か。このように記している。
<筆触>を無用にした代償は大きい。それは文章に対する無自覚を生む。そしてまた,その無自覚を発見する機会を奪う。
これを学習させるために必要なことは,この著書から言えば,量的な保障,形式の設定となっている。これは小中生でも同様だ。
学習活動としてどう具現化するかという点についての原則が,不足なく書かれている本だと思う。
作者の主張は,副題として添えられている「<からだ>に読み書きさせる」ことだ。<からだ>と括ってあることは目,指,手を中心とした感覚を通して,身体内部に知識や理解,意欲や態度を養っていくことを表わしている。
学びの身体化へのアプローチは数々あるが,その中で視写はもっと重視されていいと改めて強く思った。