すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

画像にある横の何かが気になって

2012年05月08日 | 読書
 連休中の一夜,今年はどこにも出かけないので,ということで軽く食事会をしているとき,昨年の弘前の桜の写真を見てみようとパソコンに映し出した。

 城門のところで家族全員で撮った写真が出てきたら,ぷっと娘が吹き出した。
 たまたま横にいた車椅子のご老人の位置と目線が非常に写真にフィットしていて,「まるで家族のようだ」と笑う。
 なるほど,前後の位置のずれが合って撮られている私たちはその時全然気付かなかったが,まさに見知らぬ一人が仲の良い家族の一員になったような形で写っているわけである。

 これに類した写真は,テレビや雑誌などで「○○の瞬間」のように名づけられて取り上げられることがよくある。偶然が生んだ一つの造形?として単に面白いと済ませてよいことなのだが,それを喜ぶ心理はどんなものだろうと,少し連想が広がった。

 連休中に、たまたま読んでいたのがこの本。

 『青空の方法』(宮沢章夫 朝日新聞社)

 十年ほど前に朝日新聞夕刊に連載されたミニエッセイをまとめた著書である。
 このなかに「横の何かが気になって」と題して,スポーツ中継などでそこに映し出される「携帯電話で話す人」に着目した文章がある。
 ああ,そういうことはよくあると今更ながらに思う。
 マラソン,駅伝など携帯に限らず,一緒に走る,自転車,かぶり物,旗でアピールなど,同じ場所で同じように展開されるものもある。そして視聴者である私たちも,競技よりそっちの方に目がいって,盛り上がってしまうこともある。

 写真のこととまったく重なるわけではないが,「横の何かが気になる」のは,画像というライブ的なメディアの一つの宿命なのかもしれない。
 一枚の切りとった場面,また連続する場面には,そのねらいや方法に応じて,主となる対象は確かにいるが,それ以外の情報も本当に多くある。
 もちろんそこで焦点化や集中性が発揮されるわけだが,毎日流されるマス・メディアの中で,どうも私たちは,横の何かを気にさせられて,本当に核となるものに迫ることができないでいるのではないか…そんな心配も浮かんでくる。
 逆に言えば,そういうメディアを通した情報誘導や操作は思いのほか考え抜かれているのかもしれない。

 単純に考えれば,手は二つだろう。伝えたい情報以外をシャットアウトする,周辺も含めて情報を組み立てていく。
 今どきの視聴者を考えれば,後者が力を発揮することは間違いない。

 一枚の写真をきっかけにあちこち足を踏み入れ,また迷子になりそうだが,今思うのは「車椅子の老人」にこの写真を送ってあげたいな(でもどこの誰やら)ということと,そしてスポーツ中継の横の携帯電話の声が,テレビ画面で選択して聞こえるようになれば面白いな,ということ。
 このまま進むとどれも実現しそうで,それまた怖いと感じる。