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小さな闘いであっても

2013年02月11日 | 雑記帳
 2月初め,地元の放送局が一つのドキュメンタリー番組を放送した。
 録画してあったので,この連休中に視聴した。

 一緒に生きたい~ガクちゃん先生 13年の記録~

 番組概要は以下の通りである。

 重い障がいと闘いながら、理想の教師像を追い求める三戸さんの13年間の記録。
 潟上市の三戸学さんは中学の数学教師。生後間もなく脳性まひを患い身体が不自由になったが、3度目の挑戦で教員採用試験に合格を果たす。三戸さんの夢は、障がい者と健常者のあいだにある壁を取り払って、生徒とともに生きる先生であり続けること。重い障がいと闘いながら、理想の教師像を追い求める三戸さんの13年間の記録。


 三戸さんのホームページはここ
 
 採用になった当時,かなり話題となっていたので本を購読した記憶がある。単純な考えではあったが,三戸さんを採用した本県教委もまんざらではないなという思いを持ったことは確かである。
 それから十数年が経ち,放送にもあったように,予想されていたこととはいえ,本人自身の苦闘は続いていた。

 その中身についてあれこれ言うのは憚られる気がする。
 しかしテレビを見ながら強く思ったことがある。

 その十数年の,本県教育界(けして本県だけではないかもしれない)における大きな流れの一つと,三戸さんの存在が示す考え方のギャップは,ある面で広がっているのではないか,ということである。

 障がい者教育や支援体制について語ろうとするのではない。
 教育現場への要求の多様化,そして指導場面に入り込んでいる画一化の問題である。

 現場で行われる何か一つとっても,やったほうがいいことなど山ほどある。しかし全てをできるわけではない。そして同時に,やったことによって削がれる,育たない能力もある。そういう認識の中で優先順位が決められ,取捨選択されるわけだが,いつも多数や序列の論理でそれが決められるとしたらこわいことだ。

 ハンディを抱えている三戸さんが教室で子どもに示している姿から何かを学ぶ,そういう感性は誰にも備わっていると思う。
 必要なのは,その感性を信じて維持していく気持ちの強さ,どう表していくかと工夫する姿勢のような気がする。