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題名に宿る怖さ

2013年02月14日 | 読書
 『孤独の森』(大崎善生 角川文庫)
 
 600ページ近い長編である。連休を待ってページを開いた。
 久々に読んだ大崎の本だったが,いやあ惹きこまれてしまった。
 こんな作品を書くとは思わなかった。
 将棋ジャンルから始まって恋愛小説まで結構読んでいるつもりだが,こういうサスペンス,ファンタジー,それにホラー的要素があり,しかも歴史的な因果を絡ませた内容は意外の一言である。

 読み始めたときは,主人公の少年の施設からの逃走劇を描く筋かなと単純に思っていた。しかしそれはまったくの序章であり,実に壮大なスケールで展開されていく。

 舞台は北海道。岩見沢につくられた教育養護施設「梟の森」。
 何かモデルになった団体があるようだ。
 戦後,この施設を作り上げ,拡大させていく過程に,教育や養護にかかわる人間の支配欲の根深さがじわじわと伝わってきて,怖ろしくなる。
 その物語に,ナチスのユダヤ人虐殺や幕末のキリシタン弾圧などとつながり合う過去を持っていて重層的な恐怖を増幅させていく。
 映像にしたら面白いだろうなと単純に考えた。

 さてこの小説は,単行本の時は上下二冊で,次のような題名がつけられていた。

 『存在という名のダンス』

 これは話の中に重要なキーワードとしても登場するが,実に意味深い。
 ある悲惨な歴史的事件に関わってこの言葉が出てくるのだが,それを別にしても,この表現は考えさせられる。

 シニカルということではなく「人生は所詮ダンスのようなものだ」という見方はできる。
 肝心なことは,それは踊っているのか,踊らされているのか,である。
 そして一番悲惨なのは……死にゆく直前に踊らされるような動きになっている状況ではないか。

 作家の意味したいことはもっと深層にあるかもしれない。
 「ダンス」そのものに価値があるのではなく,「存在の在り様」に価値を求めるわけだから,それはきっと小説の中のあちらこちらに散りばめられているはずだ。

 ひょっとすれば『孤独の森』という凡庸な名づけの中にも,潜り込まされている可能性は大きい。

 主人公の少年が後半に悟る感覚に「本当の敵は,孤独だ」という一節がある。
 それは確かに一つの間違いない真実に思えてくる。
 さらに,一人一人が抱えてしまう「孤独の森」というイメージが湧いてきて,その暗さ,怖さへの対峙はどこでもいつの時代でも普遍的なテーマと言えるのかもしれない。