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「違和」に足を止め,転がす

2013年02月25日 | 読書
 いつか読んでみたいと思っていた批評だった。
 現在の時点での見方に、過去の論考が付加された本が出たことを知り、注文した。

 『物語消費論改』(大塚英志 アスキー新書)

 文化史に詳しいわけでもなく、漫画オタクでもない自分にとっては、かなり難解ななかみだった。
ただ「物語消費論」の意味を、ネット上の情報でなく、そう名付けた本人の著書からとらえることができたのは、少しは価値があるように思う。

 関心がわく全てのことに対してそんなふうに向きあうことなど到底できないが、肝心なところではそういう心掛けを持つべきと思わされた。時々、そういうつきあい方をして本を読みたいものだ。

 さて、この一冊を読み始めた頃に、たまたまテレビでジブリの『コクリコ坂から』を観た。初めてだったので、正直「ああ、いい雰囲気」程度の感想しか持てなかったのだが、この著に書かれてある文章を見て、ちょっとびっくり。
 改めて批評家というのは凄いもんだなと感じてしまう。

 著者は、この本の第一部(今回書きおろした部分)の最終第四章をこう締めくくっているのである。

 この作品が震災後において最も誠実で冷静な表現であったことは確かである。

 この作品とは『コクリコ坂から』である。
 主人公である少女の亡き父親のことが語られる場面に「朝鮮戦争」が顔を覗かせる。 
 そこにある「違和」と、その受け止められ方について、著者がする分析に、心を衝かれた。

 多くの観客が劇場に足を運びながら、しかし、その問いかけは殆ど届かないだろう。
 そう、絶望をもって言える。
 それでも受け手に小さな「違和」は残される。


 劇場に足を運びもせずに、CMの入った録画で見ている人種(自分のこと)など、問題外というべきか。
 残されるべき「違和」に対する印象度は、かなりかけ離れていることだけは確かだ。
 作品の選択さえも、実は誘導されたり、仕組まれていたりするという見方も可能だ。

 そうふりかえると、ごく単純な意味で、大衆的な「物語」は何かを意味づけられ、「消費者」の前に提供されていることがわかる。
 「違和」は極力薄められながら、目や耳の中を通り過ぎ去っていく。
 また「違和」について鈍感にならざるを得ない日常を生きなければならないという言い訳じみた現実もある。
 ごくごく低いレベルではあるが、自分の生活に引き寄せられた思考になっている。

 小さな「違和」に足を止めてみる。
 その「違和」を転がす方法を間違えない。

 手に入れた学びの一つである。