すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

消え去っている学びを信ずる

2013年02月18日 | 読書
 『勉強ができなくても恥ずかしくない』(橋本治 ちくま文庫)

 これは少し立ち読みしたことがあるなあという記憶があった。
 あとがきを読んでいたら,そういえば「ちくまプリマ―新書」にあったんだったということを思い出した。

 作者の自伝的小説の三部作を,文庫として全部収録したものだ。
 東大卒の著名人に「勉強ができなくても恥ずかしくない」と言われて,心から納得できるかどうかは別にして,確かに主人公のケンタくんの物語からは,題名どおりのことが伝わってくる。

 小学校から高校までの生活が中心の話で全体を通してみて「勉強」に力の入らないケンタくんが描かれているが、それはある意味で学校批判だというとらえ方をする人もいるかもしれない。
 しかし、印象としては「学校超越」という感じだろうか。

 一ヶ所だけページの端を折った表現がある。
 中学生になっても勉強しないことについて、こう言いきっている。

 勉強なんかするひまがないくらい、ケンタくんは忙しかったのです。
 なにに忙しかったのかというと、特別なことではありません。ただ体の中がずっと幸福で、生きているだけで忙しくて、勉強なんかしているひまはなかったのです。


 誰しもがこう思って、その通りに実行できるわけではないが、それに似た思いを抱えた時期はきっとあるような気がする。
 多くは高校、大学に入ってからだろうか。その意味ではケンタくんは早々にその時期を迎えた一人なのであろう。
 いわば、好きなことに没頭できる能力。その他のこととはとあまり関わらなくとも平気でいられる感覚。そんな一時期を過ごすことなく学校生活を終えるとなれば、それは少し悲しいし、大人側の度量なんてことも考えさせられる。

 さて、一つだけ腑に落ちないというか、考えさせられる場面があった。

 高校の終わりごろ、ケンタくんは鉄棒の逆上がりや懸垂が「突然」できるようになる。
 この顛末は、お話の冒頭(小学校に入る前に叔母さんと一緒に校庭に行き、鉄棒をしたけれど出来なかったこと)と関わりを持っている。
 そして、体育が不得意だったケンタくんは「できるようになりたいと思う」ことの大切さを説く。それは確かにそうかもしれないが…待てよ、と思う。

 運動が不得意と書いてはいるが、具体的な場面はほとんど出てこなくて、鉄棒の学習についてももちろん書かれていない。
 予想には、なかなかできなくて肩を落としている姿があるのだが、何も手をかけてこなかったわけではあるまい。教師が単にやらせっぱなしということもあるまい。
 
 学校生活のなかで教えられてきたこと、経験してきたことの多くは、記憶の中では消え去ってしまう。
 特に小学校の場合は顕著だ。
 しかし、消え去っている幾万の学びによって確実に培われた能力があり、花開く時期を待っていることもある。そう信じたい。

 ケンタくんの鉄棒は、まさしくその一つなのではないか。
 そう想像したい自分がいる。
 それはまた、多くの子どもの内部にあるケンタくん的な部分へ対応する心構えではないか。