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「教えてうまくなるやつはいない」という真実

2013年02月06日 | 雑記帳
 ある新聞のコラム、例の体罰関連のことが書かれているなかに、次の言葉が引用されていた。

 「教えてうまくなるやつはいない」

 インパクトのある一言だ。
 野球評論家、権藤博の言葉である。
 監督、コーチ時代に選手の自主性を尊重した指導に定評があった。それはけして小手先の技術ではなく、強い信念に支えられていたものだろう。

 学校教育とプロスポーツを同じに見ることはできないが、私達の仕事においても、十分に噛みしめるに値する言葉だ。

 初等教育について言えば「教える」ことこそ基本であることは言うまでもない。
「教えることをためらうな」「わからなければ教える」…当然のことを当然としてやっていくべきである。

 しかし、教えてできることは、極端にいえば、なぞっただけ、まねただけのレベルまでと言ってよかろう。
 繰り返したり、馴染んだりすることによって、使いこなしができるようになり「うまくなる」。
 そのためには、何よりも自分の気づきや関心、意欲といった内部のエンジン駆動が必要であることは、教育者であれば誰しも認めるだろう。

 その部分への働きかけを「育てる」と言っていいのかもしれない。

「教え、育てる」という両輪のバランスは、一般には発達段階によって違ってくるものだろうが、それと同じ、いやそれ以上の比重で指導する側の考えによって大きく左右される。

 ただ、いずれにしろ「教える」には限界があり、どこまで教えられるかという見極めを持つことこそ、指導者としての大きな条件なのかもしれない。
 それは、「育てる」ための働きかけをどう充実させるかという努力と表裏の関係にある。

 体罰がその方法としてふさわしいかどうかは、言わずがもな、である。
 問題の指導者たちにとっては、おそらく自分が教わる側だったときに、その方法が自身を「育てた」という経験(もしくは錯覚)があり、それが継承されたということに違いない。
 そういう連鎖が脈々と続いてきた状況を見過ごしてきたのは、けして○○界という限定されたものではないだろう。

 この国の歴史的な文化と、人のエネルギーの伝わり方という二つの課題がうっすら見えてくる。
 これは大きな教育の課題とも言えよう。じっくり付き合ってみたい。

 ともあれ、「教えてうまくなるやつはいない」という言葉の重みをもう一度噛みしめるとすれば、私達が子どもに「上手になったねえ」「わあ、すごい」「完璧にできてるじゃないか」などと声をかける場面は、どのような経過によって訪れるかをしっかり振り返ることによって確かめられると思う。