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東北在住者の一つのテーマ

2013年05月14日 | 読書
 『稲穂の海』(熊谷達也 文春文庫)

 昭和40年代の東北地方を舞台とした短編集である。
 『山背郷』(20年代の狩猟者など)『懐郷』(30年代の女性など)という時期、設定は違うが、似たような短編集がある。
 二つとも既読だが正直あまり印象は強くない。
 作者の場合はやはり長編物が優れていて、ぐいぐいと物語のなかへ引き込む魅力が放たれてくると感じる。

 と言いながらも、同じ東北地方に住む者として、そして同世代としては共通項が多く、この著もするーっと入ってくる感覚はあることは確かだ。
 特に今回の時代設定の40年代は、少年期を過ごした時期なので記憶に残る背景がたくさん散りばめられていて、読みやすかった。

 作品の出来不出来を批評できるほどの能力も、読み込む忍耐力もないのだが、作者が描こうとする芯は伝わってくる。
 要するに「生の充足感」を何から得るのか、という点につきる。
 得意とする狩猟モノは言ってみれば分かりやすい素材だが、平凡な日常的な仕事や生活の中に、物語を入れ込み、その点を際立たせようとするのだから、テクニックがいるだろう。

 表題作である「稲穂の海」は、高度成長期に稲作の減反を迫られた村の青年が、同窓会でのある出来事を通して自らを振り返る結末になる。それはまさしく象徴的な姿であったし、当時おそらく似たような体験や思いを持った若者は、この東北で、いや全国の地方に何万と存在したのではないだろうか。
 他県の大学に入った自分であっても皆無とは言えない。

 主人公にこう語らせている。

 こうすれば素晴らしい未来が拓けると、正しい選択肢を誰かに示して欲しいと切実に思う。しかし、他人を当てにしようとしていることが、そもそもの間違いなのかもしれないとも思う。

 政策や時代を誘導する風に絶えず翻弄されながら、こうした逡巡を幾度も重ねただろう。結果それを「力」に出来たか、何かの形で「望む姿」にできたか…そこが肝心だろうと単純に考える。
 もちろんそういった結末は、小説の中では語られないが、だからこそ終末に描く姿や表現が大事だと思う。

 「稲穂の海」では、主人公が鎌を使って稲を刈り取る姿が描かれている。それは減反政策によって来年の秋から稲を実らすことのできない田圃なのである。
 「償い」という言葉で締めくくられていたが、実はそこで刈り取りられたのが「今までの自分」という解釈も成り立つ。
 稲穂の海の一部は無くされたが、その現実に直面したことで「海」に立ち向かう自分が踏み出せたとすれば、そこには希望がある。

 「喪失から希望へ」…そんな表現を使えば、他の短編もそんなふうに括ることができそうだ。
 それはもしかしたら東北に住む者としての古くからの歴史的なテーマであり、言うまでもなく東日本大震災という出来事によって、さらに突きつけられた感もあることではないか。

 仙台に生まれ、住み続ける作者が、大震災後にどんな話を書いたのか。
 未読であるが、この春に発刊された新作『烈風のレクイエム』(函館が舞台らしいが)は文庫化前であっても読んでおくべきかなと思っている。