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「はずれなさ」を求めてしまう言語

2013年05月15日 | 読書
 岩波書店の『図書』5月号の対談が興味深かった。

 作家清水義範と日本語学研究者(らしい)金水敏という方が「日本語はこんなに面白い」と題して話をしている。

 外国人の日本語から始まって、文豪の書き言葉、方言の話題、そしておカマ言葉、おネエ言葉などとキャラクターなどの分析がある。そして「敬語とタメ口」の箇所は、さすが専門家だなと納得できた。


 ファーストフードの店員のマニュアルによる言葉遣いはよく批判を浴びるけれど、清水はこんなふうに語っている。

 マニュアル敬語は形式としてのはずれなさであり、若者のタメの問題は心情としてのはずれなさ。これは日本語の二大面白さだなと思います。

 上から教えられた通りに呑み込む素直さ、誰からも批判を浴びないように過剰に謙ってしまうひ弱さ、それらが入り混じって「はずれなさ」を求めてしまう言語は、見方によっては確かに面白いが、結局は伝えるべき本質を遠ざける危険性がすごく強いものだと思う。
 それは最終的に我が身を守ろうという意識が優先されていくことと無関係でない。

 方言のところで、歴史ドラマにおける西郷隆盛と大久保利通の、話す言葉についての指摘があり興味深かった。現実とかけ離れている点はあるだろうが、きっと求めるものが違ったから言葉遣いも違っていったんだろうなと考えたりする。二人の功績の優劣をさておいて、心と言葉の結びつきの強さに思いを馳せる。それは人として一貫性のようなものではないか。


 さて、対談の最後には国語教育への批判が展開される。

 (清水)立場、場合、状況によって言葉を選んでいく。このことに気づく教育をすべきだと思っています。
 (金水)立場、目的、そして誰に向かって伝えることなのか、受け手を想像しながら言う、書くということが、国語教育の中で欠けている気がします。

 こう語られた内容については、ここ十数年はずいぶん強調されてきたことである。
 しかし、二人の現状認識がまったく間違っているとは思えないし、教育内容としてまだまだの部分は確かにある。

 問題なのは、表面上はずいぶんと「向上」しているように見えるその力に内実が伴っていないということではないか。
 学校教育で練習している「質」が、そのよさや効力を実感させるものになっているかどうかが問われているのではないか。