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彼岸へ向かう道

2013年05月12日 | 読書
 もし、若い頃どこかで間違っていたら(間違うほどの才能も度胸もないことは承知のうえだが,まあ)、自分も宮沢章夫のような世界の片隅で暮らしていたかもしれない。
 そんなことを時々考える。

 それは大学時代にある劇団と関わったということもあったりするが、それ以前から、なんか似たようなことを書き散らしていた記憶を、懐かしくちょっとした輝きのように思い起こすからかもしれない。

 「伝説」(自分以外誰もそう呼ばないけれど)の「2Dノート」に、ギャグを散りばめて、わけのわからないストーリーを書き、高校の教室内を回覧させたのは紛れもなく自分だった。

 連休最後に読み始めた宮沢章夫の初期のエッセイ集『彼岸からの言葉』(新潮文庫)に入り込むと、またその頃の感覚がよみがえってくる気がした。もちろん書いている中身もレベルも桁違いにかけ離れているのだが、目のつけどころや発想の近さにシンパシーを感ずるのだろうな。

 「彼岸の人」「彼岸のゾーン」「彼岸の言葉」「彼岸の物語」…これらの意味する「彼岸」を別の言葉に置き換えようとすると、いくつか候補はでるが、ぴったりと収まる言葉はなかなかない。

 それだけの包括する範囲の広い言葉であるようだ。もちろん「彼岸」なのだから。

 あえて、そこに近づくための極意!を探してみれば、まず常識的な「空間・時間」に関心を深く持つことが挙げられる。
 また、ある問いに対して、返答者が見せたわずかな間や表情を見逃さない。
 何より「言葉」に対して、追及していく好奇心。
 これは、一面では「ありきたりの言葉を疑うこと」、もう一面は歴史や常識によって手垢のついた言葉の、「手垢」の方に目をつける感覚、あるいは、信じきっている言葉の「信じ方」に興味を抱くこと。

 そしてそのまま、言葉を抱いて突っ走れば、その道はもはや彼岸に向かう。


 一昨日の夕食時、家族と最近の小さい子どもたちの(読めないような)名前について話題をしていて、わたしが言い始めたことに団欒の場が微かな疾走を見せた。


「オレなら、一文字の名前をつけるな」

「えっ、『一』と書いて『ハジメ』と読むとか」

「いやいや、一音だ。『ヌマザワ ア』とか『ヌマザワ イ』とか…」

「えええっ、それなら『ヌマザワ ス』がいいじゃない。ヌマザワスゥゥと言えるし…」

「いや、『ヌマザワ カ』もいいぞ。ヌマザワカァァァなんてイントネーションでどうにでもなる」

「じゃあ、『ヌマザワ ダ』も男らしくいい」

「妹は、『ヌマザワ ネ』になるのかな」
……


 豚肉の塩麹漬を食しながら、こんな話を延々と続ける。
 食卓は、彼岸へ向かう道と化した。