『エピソードで語る 教師力の極意』(石川晋 明治図書)
「わかりやすさ」という点で言えば、この石川さんの本は堀さんのよりずっとわかりやすい。
それは、第二章「書く教師」から第九章「『交流する』教師」まで、小刻みに81のエピソードを並べたということもそうだが、それ以上に、第一章の最後で触れそして第十章で「提案」という形で示した「町医者」理論に、全部が収束されるような構成になっているからだ。
著者の意図が明快に伝わってくる。
そして挫折や突発的な体験を含め、広範囲なエピソードに彩られながらも、常に目線の一定している石川さんの姿を感じる。
それは最終章に提示されたモデルへ行き着く(行き着いていないと言われるかもしれないが)ための筋道でもあり、意図的な選択の連続と言えるかもしれない。
さて、「町医者」と言えば、最近(といっても今冬だが)のドラマ『ラスト・ホープ』を思い出す。
http://www.fujitv.co.jp/LASTHOPE/caststaff/index.html
先端医療を売り物にした総合病院のスタッフとして、様々なスペシャリストに交じって加わった一人の医者の物語だった。話の筋はその主人公の出生をめぐったことが背景になっていたが、その主人公が他のスタッフから「町医者」というあだ名で呼ばれていた。
それはもちろん「町医者」からの転属を表わしているに過ぎないのだが、この「町医者」が一番よく患者に正対し、心に迫っていくという設定を持っているものだった。
その意味で、目の前の対象にきちんと向き合い理解することから始まる教師の仕事は「町医者」に近いし、そういう存在が充実していくことは本当に貢献度が高いと考えられる。
石川さんはこう書く。
身の丈にあった適切な学び方を身につけましょう。
確かにその通り。
そしてそれはきっと「極意」なのだろうが、「じゃあ自分の身の丈は?」と、その時点で逡巡してしまう私のような者も結構多いのではないか。
この本に書かれてある多様な、実に多様なエピソードの中に共通点を見いだせるのではないか…
いやいや、まず自分という存在をよく観察、内省してみればきっと見えてくる…
そうではなくて、目の前の子どもの触れ合いを通して感じるものだ…
いろいろなことが思い浮かぶ。
もしかしたら、自分の身の丈をどう測ればいいか悩んでいる人もいるのではないか。
いや、今、身の丈は自分で測るものではなく、お上からの通達や周囲からの同調圧力で決まってしまっているのではないの…
そんな穿った見方も出てきてしまう。
ごく細かな私的なことを言えば、数年前私も石川さんを真似て「誕生日休暇」をとった経験がある。しかし公言するのはためらったし、それ以降は行事と重なったりして、取れていない。もちろん「振替」もしていない。
これは職場づくりという範疇に含められる自分にとって大事なことであるにも関わらず、この様である。こうした意識が及ぼしている範囲は案外広い。
自分の「身の丈」を、この本で語られた様々なエピソードと結び付けられる人がはたして何人いるか。
もちろん、部分的に共通性があることに意義づけしながら学びを強めていくことは大事だ。
しかし、それも例えば「書く」が抜けたり、「対話する」がおぼつかなかったりするとき、町医者はただの藪医者で終わるのかもしれない。
なんだか偏った危惧だけが浮かんでしまった。
しかし、基本的にはこの町医者を目指す学びのモデルに大賛成であり、今自分がしているささやかなことが、そういった学びの浸透に少しでも役立ったらいいと考えている。
それにしても著者自身も書いているが「格好良すぎる」文章がある。
これは町医者の言葉とは思えない(笑)。
私は、その後村上(春樹)に限らず、ほとんどの物語を読まなくなりました。私にとっては、自分の人生の物語が何よりもおもしろいのです
そうなれば、一番の極意は「楽しむ」ということですね。
もっともこれだけだと、藪医者モデルになりそうだが。
「わかりやすさ」という点で言えば、この石川さんの本は堀さんのよりずっとわかりやすい。
それは、第二章「書く教師」から第九章「『交流する』教師」まで、小刻みに81のエピソードを並べたということもそうだが、それ以上に、第一章の最後で触れそして第十章で「提案」という形で示した「町医者」理論に、全部が収束されるような構成になっているからだ。
著者の意図が明快に伝わってくる。
そして挫折や突発的な体験を含め、広範囲なエピソードに彩られながらも、常に目線の一定している石川さんの姿を感じる。
それは最終章に提示されたモデルへ行き着く(行き着いていないと言われるかもしれないが)ための筋道でもあり、意図的な選択の連続と言えるかもしれない。
さて、「町医者」と言えば、最近(といっても今冬だが)のドラマ『ラスト・ホープ』を思い出す。
http://www.fujitv.co.jp/LASTHOPE/caststaff/index.html
先端医療を売り物にした総合病院のスタッフとして、様々なスペシャリストに交じって加わった一人の医者の物語だった。話の筋はその主人公の出生をめぐったことが背景になっていたが、その主人公が他のスタッフから「町医者」というあだ名で呼ばれていた。
それはもちろん「町医者」からの転属を表わしているに過ぎないのだが、この「町医者」が一番よく患者に正対し、心に迫っていくという設定を持っているものだった。
その意味で、目の前の対象にきちんと向き合い理解することから始まる教師の仕事は「町医者」に近いし、そういう存在が充実していくことは本当に貢献度が高いと考えられる。
石川さんはこう書く。
身の丈にあった適切な学び方を身につけましょう。
確かにその通り。
そしてそれはきっと「極意」なのだろうが、「じゃあ自分の身の丈は?」と、その時点で逡巡してしまう私のような者も結構多いのではないか。
この本に書かれてある多様な、実に多様なエピソードの中に共通点を見いだせるのではないか…
いやいや、まず自分という存在をよく観察、内省してみればきっと見えてくる…
そうではなくて、目の前の子どもの触れ合いを通して感じるものだ…
いろいろなことが思い浮かぶ。
もしかしたら、自分の身の丈をどう測ればいいか悩んでいる人もいるのではないか。
いや、今、身の丈は自分で測るものではなく、お上からの通達や周囲からの同調圧力で決まってしまっているのではないの…
そんな穿った見方も出てきてしまう。
ごく細かな私的なことを言えば、数年前私も石川さんを真似て「誕生日休暇」をとった経験がある。しかし公言するのはためらったし、それ以降は行事と重なったりして、取れていない。もちろん「振替」もしていない。
これは職場づくりという範疇に含められる自分にとって大事なことであるにも関わらず、この様である。こうした意識が及ぼしている範囲は案外広い。
自分の「身の丈」を、この本で語られた様々なエピソードと結び付けられる人がはたして何人いるか。
もちろん、部分的に共通性があることに意義づけしながら学びを強めていくことは大事だ。
しかし、それも例えば「書く」が抜けたり、「対話する」がおぼつかなかったりするとき、町医者はただの藪医者で終わるのかもしれない。
なんだか偏った危惧だけが浮かんでしまった。
しかし、基本的にはこの町医者を目指す学びのモデルに大賛成であり、今自分がしているささやかなことが、そういった学びの浸透に少しでも役立ったらいいと考えている。
それにしても著者自身も書いているが「格好良すぎる」文章がある。
これは町医者の言葉とは思えない(笑)。
私は、その後村上(春樹)に限らず、ほとんどの物語を読まなくなりました。私にとっては、自分の人生の物語が何よりもおもしろいのです
そうなれば、一番の極意は「楽しむ」ということですね。
もっともこれだけだと、藪医者モデルになりそうだが。