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待つ心身をつくりあげる

2013年05月09日 | 読書
 『エピソードで語る 教師力の極意』(堀裕嗣 明治図書)

 (p160)私の存在が、私の現実が、私の肉体が本気で取り組みたくなるような対象をただひたすらに待つのです。

 これは極意と言えるだろうか。
 言えなくもない。しかし「凡人」が方法やコツととらえることのできない代物だと思う。

 「待つ」は教育において、いや人の生き方においても、大きな大きなキーワードだけれど、その行為を成す主体こそが問題なのだ。
 つまり、「待つ心身」。待つ心身をつくりあげることが肝心である。

 そのための「極意」をこの本から読み取るとすれば、それは「意識的・自覚的」であることではないか。

 堀さんは「意識的に取り組もうとすることは実はまずありません」と書いてはいる。がしかし、この本に書かれている大半のエピソードが、階層の違うレベルとはいえ十分に意識的・自覚的であることに間違いはないだろう。

 「振り子論者」「メタ認知論者」と称すること自体が、その証左であり、その過程の中で汲みとった意識について、わずかであっても読み手が強く響いてくるものを得られれば、この本の価値はある。


 さて,仮に国語科教師であってもよほどの読書量を持つ者でないと、堀さんの歩んだ道を正確に理解することはできない気がする。
 影響のある数々の文学者・研究者の思想や考えは把握できたとしても、その向き合い方や消化の仕方を単純にすうっと呑み込める人は何人いるのだろうか。

 曖昧な表現ではあるが、私はふと「業」のようなものを感じてしまった。
 おそらくそれは「文学」にどっぷりと浸ってきた著者の心身から放たれている感覚だ。
 もちろん文学と教育の矛盾について認識し、文学教育と言語技術教育の区分にも明確な、とことんメタレベルの位置にいる堀さんであることを十分承知しながら、そう感じてしまう自分がいる。
 たぶん、先の見えない物語を感じているからなのかもしれない。


 人の心の深いところに手を伸ばすために必要なもの。
 ある意味では、そのことについて書かれた本だ。
 それが見えない者や不足している者には、ここに書かれたエピソードは迫ってこないのではないか。
 正直、私にしてもイメージ化できないものがある。しかし、漠然としながらも踏みしめる足の重さは伝わってきた。この感覚は、きっとそれぞれの対象に向かって踏み出す鋭さや力強さから生じてくるように思う。


 いずれ、著者の考えている極意!の一つに「バランス」があることは確かだろう。
 そしてバランスの重要性を強調する一方で、振り幅の少ない歩みを考えている教師では、結局支点となるべき足腰は弱く、外からの揺れに対応できないんだよ、と諭すように示していることは絶対に見逃せない。