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主語ではなく主題を生きる

2020年07月28日 | 読書
 教員になって初めの頃、力を入れた実践に「漢字」と「文法」がある。これは当時購読していた教育雑誌の影響が大きいだろう。いわゆる読解の授業とは違い、教えるべきことが明確という印象を持っていた。しかし取り組むなかで強く感じ始めたのは、特に文法における「例外の多さ」そして「曖昧さ」であった。


 『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』(金谷武洋  飛鳥新社)


 この本は、こう切り出される。「日本の学校の国語の授業では、日本語の本当の姿が教えられず、可哀想なことに生徒たちが根本的に間違った文法を習わされている」。一般の読者が目にすれば、少し驚く文章だと思う。いくらか文法指導をかじった立場の者としては、「間違った文法」という語の捉え方だなと解釈できる。


 筆者は、日本語の文法は明治維新後に入ってきた「英文法が土台になっていて、そのことが大問題」とする。読み進めていくと、自分が頼りにしてきた文法も該当していると気づかされる。単純に「主語信仰」とでも名付けられるか。小3で始まる(今は小2?)文法の授業展開で、確かに「主語を探す」比重は大きい。


 当時は何の疑問も持たなかったし、むしろ「文の要素」を細かくみて「きまり」を見つけ「適用」していくという手法は、学習の本筋だと捉えていたのだろう。しかし今改めてその意義を考えると、なぜ英語的だったか、それで良かったのか疑問が浮かぶ。「英語とは発想が逆方向」の日本語について、筆者は詳しく述べる。


 典型的な例として「ありがとう」と「Thank you」が挙げられ、英語は「(誰かが何かを)する言葉」、日本語は「(何らかの状況で)ある言葉」と対比される。Thank youはもともと「I Thank you」だったという。「ありがとう」は「有難い」から派生したことはよく知られている。主語の有無が決定づける意識は大きい。


 「日本語は共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉」と結論づけ、日常表現例を示す第一章を皮切りに、「人名・地名」「声と視線」「愛の告白」等々による比較がされていた。まとめとしての「十大特徴」も興味深い。肝心なことは「主語」ではなく「主題」という主張は、価値観、人生観に結びついている気がした。