すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

安価な美味いケーキもある

2020年07月29日 | 読書
 ひと月に一度くらい、主として風呂場読書用に新書や文庫の古本をまとめて買いするのだが、時間がなく手当たり次第に選ぶ時もある。今回もそうだったのか、帰ってきてから「どうしてこんな本が…」と思ってしまった一冊がある。著者に見覚えがあったのか、それとも意外といい表紙写真に見惚れてしまったか。

 『生きているうちに、さよならを』(吉村達也  集英社文庫)



 「吉村」という名字だったら、吉村昭は知っているが他にいたかなあとレベルなのでたぶん初めて…と思いながらページを開いていく。小説だが、「はじめに」とあるのは、主人公による半生記の形で語ろうとしたためという設定だからだ。読み進めていくと、知らず知らず引き込まれる。なかなかのストーリーテラーだ。


 この書名が示すのは一般的には「生前葬」であり、その考え方に共感した主人公を巡る物語だ。一代で会社を築き上げたいわば豪腕の経営者が、それを実行しようとしたときに、彼の身に降りかかる思わぬ出来事と、そこへ到る深い因縁が暴き出されるという流れだ。工夫された構成と読み応えある展開となっていた。


 それにしても「生きているうちに、さよならを」とは、齢の重なりをひしひし感じる世代にとって、時々思ってもなかなか実行に足を踏み出せないのが普通だ。自分もまたしかり。それゆえ『一期一会』のあまりに著名な語の重みが増す。しかしこの小説の劇的な展開は、書名の柔らかさとはかけ離れてゆくのだが…。


 ミステリを中心にずいぶん多作で、巻末にある「作品リスト」に驚いた。これは一つの職人技と言えるか。何年もかけて執筆した大作ではなくとも、プロットを立て取材をし読者心理を上手く掴む文章表現によって、作品を仕上げたイメージ。喩えれば、安価だけれど「うまい!」と素直に言えるケーキのようだった。