すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

夏休み読書メモその3

2010年08月18日 | 読書
 二年前に単行本が出た時、読みたいような読みたくないような気持ちになったことを覚えている。
 そうこうしているうちに、テレビドラマとして放映され、とても田村正和のイメージではないなあと、しかし奥さんの役として富司純子なら納得だなあと感じたものだった。

 『そうか、もう君はいないのか』(新潮文庫)
 
 気骨の作家城山三郎の最終となった原稿は、病死した妻に宛てられた思いである。
 ジャンルとしては手記ということになろう。

 伴侶との出会いから始まり、自身が作家として独り立ちし「筆一本」で暮らしていく様が、二人のかかわりを通して描かれる。
 明るくユーモラスで、あっけらかんとしていながら十分な気遣いをみせる妻容子さんに対する眼差しの温かさ、ぶれの無さは、巧緻の少ない表現と相まって、心に直接響いてくるような気がする。

 いわば思い入れがダイレクトに書き込まれていると言っていい文章だが、それゆえ内面にある悲しさも感じてしまう。
 人はいかに作家という職業にあっても、ある感情で心が満たされてしまう場合、そこに技巧的な要素が入り込む余地が少なくなるものだと改めて感じる。

 おそらく編集者によってつけられただろう、この題名「そうか、もう君はいないのか」に込められた喪失感は、ある程度の年齢になり、相当の期間連れ添った夫婦であれば、ギクリとしてしまうのではないか(圧倒的に男の方が強く打たれるだろう)。

 それは一言でいえば「恐怖」である。
 必ず一方が直面せざるを得ない現実である。
 想像してみることでいくらか和らげる性質の思いとは言えない。だから目を背けていたい、茶化して平然を装っていたい…。

 しかし、題名に込められる深部には作家としての仕事を全うしてきた矜持が強く感じられ、だからこそその別れの言葉は切ないが気高くもあり、どうしても耳に残ってしまう。

 さて、情けないことに夜は読まないでおこうと予防線をはったのだか、それは明るい日中であってもあまり違いはなかった。

夏休み読書メモその2

2010年08月17日 | 読書
 ベストセラー『博士の愛した数式』以来、何冊か小川洋子の作品は読んだが、これはこれは、と思わされたのがこの『夜明けの縁をさ迷う人々』(角川文庫) である。

 九篇の短編小説集である。確かに今まで読んだ中にも、奇っ怪な感じ、見方によってはややオカルトっぽいものもあるにはあったが、この短編集はその色が濃い。

 展開としては、何気ない日常的な事柄から始まり、ある一点、一片から狂気へと入り込んで、逃れられない世界の様相が描かれる。そしてその果ての世界に垣間見えるのは、誰しもが心の隅に宿す欲望や願いだったりする。
 そこにたどり着くまでがスパイラルな感じでぐいぐいと筆力で引っ張られるようでさすがと感じる。

 ただ読後感は様々であり、しみじみ思わせるものあり、ずばっと斬られてお終いというイメージもあり、好き嫌いが分かれるかもしれない。

 個人的に気にいったのは「イービーのかなわぬ望み」。
 
 イービーと呼ばれるエレベーターボーイ。中華料理店のエレベーター内で産み落とされ、エレベーター内でその一生を過ごす者とその店で働く女子店員の「私」との物語だ。
 古びたエレベーターの中での動作や会話、そして閉店に伴う急展開による悲しい結末。
 イービーの姿は、エレベーターの中でその存在を強調しないほど小さく特殊な形態であるが、仕事は完璧である。それ以上の望みも持たない。
 その生き方を見つめる「私」の目は情愛に溢れているが、イービーの小さな箱の上げ下げに終始する有り様は宿命の悲しさに見えて、切ない。

 現実としてはあり得ない描写が鮮やかに浮かび上がってくる文章も、物語の筋の中で違和感を覚えないのは、ある種、白日夢の世界と呼んでもいいかもしれない。

 題名には「夜明け」が名づけられているが、真夏の昼下りに寝転んで読むのにも、なかなか適している。

夏休み読書メモその1

2010年08月16日 | 読書
 堀江敏幸は『雪沼とその周辺』しか読んだことがなかったが、いつだったか月刊誌に中島みゆきの歌の世界を掌編にする企画に文章が載っていて、その鮮やかな切り口に舌を巻いたことがあった。

 空港内の売店で文庫本を手にとって、なんとなく読めそうな内容だったので買い求めたのが『めぐらし屋』(新潮文庫)だった。

 もっぱらサスペンスやエンターテイメント色の強い小説を読み漁っている自分にとっては、少し退屈な小説のように思えたが、なんとなくひき込まれ、ほとんど一気に読み終えて感じたことがある。

 「ゆたかにえがく」というのは、細かく些細なことにどこまで目をつけて書き込むかということだな…

 言葉にしてみれば、ごく当然のことかもしれないが、そういう文章を実感させてくれる作品はなかなかないものだ。

 『雪沼とその周辺』も上手いなあと思ったが、この『めぐらし屋』は長編なだけに主人公へ知らず知らずに寄り添っている自分を感じることができた。
 何気ない詳細(もちろん作者は意図的に取り上げているわけだが)を描くということが、読み手の感情をほんの少しずつ揺らし続け、その繰り返しによって同調していく、とでも言えばいいだろうか。

 解説子(東直子)が実にうまいまとめをしている。

 文章を味わいながら人生が細部の積み重ねでできていることを体感できる小説
 
 自分も、自分の周囲の人も、そういうふうに細部を見つめながら生きているという事実に気づかせてくれる。

 どんなふうに細部を選択し、形づくっていくか。拠り所を持っている人は強い

至言にあふれた空間

2010年08月14日 | 雑記帳
 わずか10畳にも満たないほどの広さではあるが、至言にあふれた空間であった。

 「人生二度なし」これ人生における最大最深の真理なり
 
 森信三先生のコーナー(記念室)である。その胸像が鎮座し、壁面に経歴や折々に語られた言葉が掲げられている。

 「立腰教育」などについて多くの著名な教育実践家の範となっていることはむろん知っていたが、改めてじっくりと著書に触れたこともなかったので、いい機会となった。

 そこに書かれてある紹介の一文を読んだとき、全国各地の心ある教師に与えた影響の大きさを見る思いがした。それは、直接に教えていただいたことのない私ごとき者にとっても、強い波が伝わっていることを示している。

 縁ある教育者には、「実践記録」のまとめ、「一人雑誌」の発行、「自分史」の執筆、「読書会」などをすすめられました。
 
 自分の学び、実践、生活などを書くことにより見直していく、してきたことを振り返りその先を展望していくという姿勢は、きっと多くの先人が実行し、啓蒙してきたことである。
 教育に携わる者であるならば、必須の方法として位置づけられなければならないだろう。
 
 様々なジャンル、レベルによる使い分けを意識しながら、些細なことを書きつけていこうと意を強くする。そのことが何かしらのタネに結びつけば、これは幸せなことである。

 教育とは
 人間の生き方の
 タネ蒔きなり

 

南吉記念館を訪れて

2010年08月13日 | 雑記帳
 飛行機の遅れがあり急ぎ足となったことが残念だったが、初めて訪れた新美南吉記念館は予想以上にりっぱな施設であり、短時間ながらその雰囲気に浸ることができた。

 作家自身に深い思い入れを持っているわけではない。しかし、振り返ってみるといくつか印象深いこともある。

 初めて「単元全授業記録」に挑戦してみたのは『手ぶくろを買いに』だった。
 そして、雑誌掲載論文として自分なりにある程度の自信を持って執筆できたときの詩教材『天国』も南吉のものだった。
 教科書作品程度の知識しか持ち合わせないが、改めて新美南吉の持つ世界観が象徴されている作品だったなと、振り返って思う。

 自然の動植物や家族に対する慈愛という表現は、きわめて一般的かもしれない。しかし賢治を尊敬していたという記録もあり、その精神には共通するものがあるのだろう。
 童心社の紙芝居で個人としてシリーズ発行になっているのが、賢治と南吉であることも偶然とは言えまい。
 館内に漂う雰囲気も、どこか似ている気がする

 半田市の教育委員会で発刊している『新編新美南吉代表作集』を購入してきたので、じっくりと読んでみたい。

 さて、帰ろうとしたときに目に入った掲示がある。
 ある著名な教育者の名前、ああこの方も半田市なんだ。
 なんか凄いなあと思ってその小部屋に入った。

生き生きとした言語活動、昼も夜も

2010年08月08日 | 雑記帳
 以前ここでも紹介した研修会を終え、自分なりに印象に残ったことをふりかえってみたい。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20100706
 
 前半のミニ講座について、研修部や役員以外の方が引き受けてくださったことは非常に大きい。人選にもっと難航するかと思っていたが、さすが我が研究会のスタッフは優秀であるし、まだまだ掘りおこせるように感じた。
 実際の運営、内容面でいくつか改善が求められると思う。大きな点は時間が延びたということだが、これは全体を通して不要な言葉が多いということに尽きる。私自身も反省する必要がある。

 午後からの模擬授業、パネルディスカッションは収穫の多いものだった。
 二人の講師を招くことも、模擬授業のあとに講話や講演という形をとらないことも初めてではあったが、周囲の評価を聞いてもまずまずだったのではないか。

 何より時間的な制限の中で、絞り込んだ主張をしてくださった二人の講師の力が大きい(人選をした私もエライ、と言ってもいいでしょう)。ただ、進行役としては予想通り不十分な仕切りであったし、このあたりは修業が必要なところか。

 照井先生のお話のなかに、「『生き生きとした言語活動』より『学力形成』を」ということがあって考えさせられた。
 研修会のテーマ(実はこれが研究会組織のテーマ)が「生き生きとした言語活動のある授業」であったことを踏まえ、とかく活動主義に陥りいりがちな昨今の風潮、甘い認識を批判されてのことだと思う。

 安易に決めた文言ではなかったが、少なくても解題はしっかりしておくべきと反省させられた。つまりは「何を学ばせるための言語活動か」という意識を常に顕在化しておくことである。
 「各教科における言語活動」などという言葉が声高に叫ばれているが、どのレベルでそれが行われるものか注視したい。

 いつもながら自在な授業を見せてくれた京野先生の話の中に、年間を通しての授業の構想、あり方を示す発言があったことは、とても興味深い。
 紀要や雑誌等で発表された様々な論考の中に表されている、様々な読みの観点、技能というものを身につけさせていくために、意図的な展開があることは当然だろうし、今度はその筋道なども話題にできればと思う。
 いわば、自在にあるための布石とでも言おうか…。

 「布石」といえば、社会科の某名人教師のキーワードの一つではあるが。

 そういうことで?一番面白かったのは会終了後の小宴だったり二次会だったりするわけで、これは参加した人でないと分からず、そこではずいぶんと「生き生きとした言語活動による学び」が展開されたなあ、と深く納得してしまった。

時を経ても生きる言葉

2010年08月07日 | 読書
 昨日私たちの会で行った国語教育講座後半のパネル・ディスカッションのために、本棚から古い雑誌等を紐解いたが、しばし読みふけってしまったものがいくつかある。
 メモとして残しておきたい。

 模擬授業で『一つの花』が取り上げられるということで、本当に多くの実践例や記録があるものだと驚く。その中にこんな古い雑誌が目を引いた。

 『現代教育科学 1986.3』 特集 いま授業づくりで何を問うか
 ~同一教材(今西祐行「一つの花」)による授業の比較~
 
 
 『国語教育誌』でないところが凄い。二十数年前である。

 日本教育方法学会の公開シンポジウム記録となっている。
 提案者(授業者として記録を発表)として、大木正之・大森修・加藤憲一の三氏の名前がある。大雑把だが、一読総合法・分析批評(法則化)・文芸研と分けられるだろうか。

 86年と言えば、教育技術の法則化運動が広がりを見せ始め、その考え方や運動等に関して、批評・批判が盛んになった時期である。
 このシンポジウムでも一番焦点化された討議は、大森氏が出した結論「『一つの花』は、四年生の分析にたえられない」をめぐってのことだった。シンポジウムで異彩を放つのが大西忠治氏の発言。実践に根づいた研究者 としての重みを感じた。

 ここでの議論の明確なまとめはなかったが、一ついえるのは「正確に読みとる」ことの強調である。
 今の時点ではしごく当然なこのことでさえ、当時一流と言われた実践者の授業においてもないがしろにされた部分もあったということである。

 その意味では、時代が着実に言語技術教育へ向かうための一つのポイントであったのかもしれない。
 
 「授業づくり」がテーマであったが、どうしても文芸を読む力の方に論が偏っているように思えた。
 その意味で総括として、司会の大槻氏が「内容の読み取り」「読み方」「学習集団」という三つの目標の絡ませ方の検討を課題に上げたことは、現在でも生きる視点だと考えた。

 主催者である吉本均氏が語った、書きとめておきたい言葉がある。
 
 共体験

 「感動は教えられない」…その論には賛成する。
 しかし感動のもととなり得る物語への共体験を作り出していく言語技術こそ、文学教材の持つ価値を引き出すのではないか。

涯てを作らない男

2010年08月05日 | 読書
 先日の弘前の講座で実践発表なさった井関先生も、読書の部分でさらっと口にしていたが、「伊坂幸太郎」は面白い。

 今日読み終えた『砂漠』(新潮文庫)も実に軽妙、洒脱というか、娯楽としての読書を満喫させてくれる。
 伊坂独特とも言える人生訓的なメッセージの入れ方がなんとも言えず心を浮き足せるし、それを口にするキャラクターのたて方が本当に上手だ。

 今回は主人公北村を中心とした5人の大学生活を描いた青春小説?だが、中でも際立つのは「西嶋」だ。
 解説子もその人物だけを取り上げて書いているほど、西嶋の言動は人を惹きつけると思う。

 実際の登場場面は、宴席に突然飛びこんできて対米批判を繰り広げるようないわゆるウザイ男なのだが、どっこいこの西嶋は、そこに漂っている「空気」の真実味のなさを指摘する存在でもある。

 つまりは、誰しもが心の底で思いながら願いながら、けして口にしない実際に行動しないような類のことを具現する。それを見せ付けられることによって、圧倒されながら爽快感を得る、そんな感じだろうか。
 友人たちが口にする評価は、多くの人がどこかに抱えている希みでもある。

 恰好悪いけど、堂々としている

 見苦しいけど、見苦しくない

 その中でも、この表現は好きだなあ。

 西嶋には涯てがない

 そして、本当は誰しもそうなのではないかと、夜中に考えたりする。
 涯てを作ろうとしているのはきっと自分自身で、もしその涯てが見えているのだとしたら、それは幸せなことではない。

時間切れの問いになって

2010年08月04日 | 雑記帳
 ここ数年続けて参加している弘前の「鍛える国語教室」に、今年も足を運ぶことができた。
 メイン講師の野口先生の他に照井、堀両先生という豪華な顔ぶれであったが、ゲスト?のお二人の講座時間が短く、少々惜しい構成だと感じた。テーマや内容設定などに意見できる立場にはないが、せっかくの…という気持ちを抱いてしまった。

 ともあれ、様々な情報を吸収できた会であったことは例年に劣るものではない。
 特に主たる内容の「伝統的な言語文化」についてあまり検討する機会もないままにいたので、いい勉強になった。
 いわゆる古文・漢文から詩歌だけでなく、神話、民話まで広く考えられることを再確認した。先取りのような形でここ数年音読や暗唱に取り組んできたことと実際の授業をどう絡ませていくか、今後の課題となっていく。

 野口、照井両先生にはそのためのいいモデルを見せてもらったということだ。
 素養の部分の勉強が必要になってくることは確かだが、それで腰が引けてしまっては進まないだろうし、逆にあまり難しく考えない方が得策のように思えてきた。

 堀先生のビデオ講座?は、ホームページ等で書かれていた「現物」を見られたということが収穫。小学校担任ではかなり限定されるだろうが、かなり似ていることをやってきた自分にとっては、いい刺激になった。溜めてあるビデオに手をつけてみなくては、と思わされる。

 会の最後は恒例となった野口先生の「修業講座」であるが、何度聴いても何度頷いても近づけない自分を感じる。だからこそ、そこにいると言うべきか。
 同じ話題は繰り返し聴いてきたが、その度に新しい逸話や警句を折り込んでおられるところ…これはリピーターでなければ発見できないのである。

 最後に「問う」ことをしようと思ったら、時間切れで打ち切られてしまった。参観歴二十数年の私にとってはかなりインパクトある言葉だった。

 「40代の時より、70代の今の授業の方がいいと思っている」
 
 具体的にどこがいいのか自己評価をお聞きしたかった。

 質問があったのですが…と最後に挨拶してきたし、年末にお招きするときにでも直接お伺いするつもりだが「えっ、そんなこと言ったけ」などとはぐらかされる気もしている。

 そんなふうに予想できるところがまた、野口先生の先生たる所以のように思えてくる。

会議の目指すもの

2010年08月03日 | 雑記帳
 「リアル熟議in秋田」という会が日曜日に持たれ、傍聴しにいってみた。
 
 鈴木副大臣の話も聞いてみたかったし、何より「熟議(熟考+討議)」という一つの会議の方法に興味を持ったということがある。

 熟議の詳しいことは、文科省のこのサイトへ
 http://jukugi.mext.go.jp/

 正直、主催者側の話は繰り返しが多かったり、時間が守られなかったりして残念な気もしたが、グループによる討議の様子はそれなりに考えさせられることもあり収穫になった。

 1グループ人数は11名、今回は「付箋紙法」をとって意見を集約していく形だった。
 初めての人もいただろうし、スタートはエンジンのかからないグループも多かったが、徐々にこなれた様子があった。参加者(討議者)は皆それなりの方々であったし、そうした見通しはあったかもしれない。

 付箋による視覚化が、議論の整理に役立つことが改めて確認できた。
 前任校でこれを始めたときに、その人数が10人弱だったことを考え合わせると、11人というのが上限かもしれない。少し離れた位置だと見えにくいことが障害になるだろう。理想的には6~8人というところではないか。

 熟議のテーマは、共通として「読書」を取り上げもう一つは選択であった。 
 まとめを除けば40分×2という時間設定で深められるものなのか疑問は残る。個人的にはテーマは一つ、それも地域にあった課題(本県であれば自尊感情か自然体験か…)で行った方がより意義を実感できたのではないか。

 読書というテーマ設定も短時間のブレスト的な進行も悪くはないが、「熟議」の「熟考」とはもう少し余裕があるものではないか。
 各グループから報告された事項に新鮮味がはたして多かったかと言えば、それはさほどではなかったし、もう一つ突っ込む流れを作ってほしかった。この考え方は古いのだろうか…。

 出されたアイデアが政策の案として提示される可能性を持つことは、いずれにしても良いと思う。
 それは、参加者が「自分ができること」を強く意識するというもう一つの目的と対をなしているとも考えられるが、全ての「会議」はそういう質を持つものでありたい。