すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

3月11日,今年思っていること

2012年03月11日 | 雑記帳
 とりあえずメモしておくことを,ほんのちょっぴり相手意識を持った形で残すためにこのブログを続けている。
 その意味ではやはり今日は大事だと思い,とりあえず画面に向かっているのだが,どうにも思考が固まってくる気配がない。
 いつも以上に,ばらばらなあれこれを書き出してみたい。

 いったいどんな情報を信じればいいのか…1年後にこんなことを正直に思ってしまうのは,自分に「信念」というものがないからだろうか。

 復興や原発に関して,様々な人が様々な立場からモノを言う。
発言している人の数だけ願いがあるのだろうし,それによって現実の見え方が異なっている。

 自分の立つ位置だけでなく,貧困な想像力を駆使して多面的な視点から考えようとしているのだが,結局自分から逃れられないことを認めなくてはいけない。
 しかし,そこで居直っては駄目だし,やはりいろいろな情報を知ること,人の意見に耳を傾けてみることを,今だから続けてみるべきか。

 二月に行われた研究発表会で,放射能に関する授業のデモンストレーションの発表を聴いた。「正しく怖がるために」と言われ,その発表をうけて正直に「怖い」と感じた自分がいたし,その感情を「正しく」にするか「誤って」にするかは,結構な覚悟や注意力がいると思った。
 敏感になれないならば,もしかしたら目隠しをした方がいいかもしれないと弱気も顔を見せた。

 先日,近所の建設関係の人が,被災地復興の現場では「フラクが多い」という言い方をしていた。何のことばかと思ったら,土木用語で通常最低価格が予定価格の上限を超えた場合に「不落」といい、入札が成立しないことを指すそうだ。

 それは実際にどんな意味を持つのか。そして復興景気にわいている?仙台の繁華街の賑わいとは本当なのか。
 結局大きいところが儲かるようにできているならば,その仕組みに背いて動いている人たちをもっと応援したいとつくづく思った。

 もう一度,評論家然として震災や原発を語ることのくだらなさを心に留めたいと思う。

 そして,俯瞰してとらえるための情報選択をもっと慎重に,(と言っても結局今まで自分が信じてきた人たちにすがるしかない)ということ,目の前にある出来事の変化にもっと敏感になること…ありきたりの結論だが,時々噛みしめなければならない。

切羽へ行ったことがないので…

2012年03月09日 | 読書
 柄にもなく恋愛小説などを手にとった訳の一つには,この題名がある。

 『切羽へ』(井上荒野 新潮文庫)

 「切羽」は知らない言葉だ。ふだんならすぐ辞書となるのだが,そのまま読み進め,どこで出てくるか楽しみにしようと思った。

 その言葉に行き着く前に,もう一つ面白い言葉と出合う。

 「ミシルシ

 これは時代劇などで,「ミシルシ頂戴つかまつる」などというセリフのミシルシと同じであろうか。

 本文にはその部分はこう記されている。

 この島で私たちが正しく生きているという神託みたいなもの

 これは辞書を引いてみる。

 み・しる【御霊】
  皇位を示す印。もと鏡と剣,後に剣と玉,特に玉をいう。


 これは,これは。ずいぶんと飛躍した意味のとらえである。時代劇や合戦などでの使い方も比喩なのだろうか。
 ネットで調べたら,それは「御首級」ということであった。
 なるほど,これも独特な読み方だが,勉強になった。

 さて,「切羽」である。

 「トンネルを掘っていくいちばん先を,切羽と言うとよ」

というセリフがある。そしてそれはこうつながっている。

「トンネルが繋がってしまえば,切羽はなくなってしまうとばってん,掘り続けている間は,いつも,いちばん先が,切羽」

 対象が恋愛であるならば,なんと詩的なことばなのだろうと思う。
 お互いを目指して掘り進んでいくその先を表すことばは,通じ合ってしまった瞬間に姿を消してしまう。
 切ない響きがある。

 辞書には単純な作業用語として書かれてあるが,それを主題として取り上げたところに,この作家の感性の素晴らしさがあるのだろう。

 それにしても,実はあまりぴんとくる小説ではなかった。(直木賞作品には失礼か)

 解説の山田詠美がこう書く。

 これは,何かを失ったことのある大人のための物語である。

 よく目にするような一節である。
 結構いろんなことを失ってきている気がするが,掘り進んで得たものではないから重みがないのかな,と振り返ってみる。

何気ない一言の深刻な不安

2012年03月08日 | 雑記帳
 2月は県外への研究会参加が続いたので,報告会という形で研修が持たれた。

 情報教育関連の会の報告があった後に,私も文科省の進めていることなどについて少し触れた。
 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyouhou/1292783.htm

 児童生徒に情報端末が配布されるのは,そんなに遠い未来でもないような気がするが,目処としている年がいつかを聞くと,年配の教員たちから洩れることばはこうだ。

 「自分は,その頃はいないなあ」

 本音であろう。

 そしてそれは残念さより,安堵感が強い。
 仕事として現実的にどんな動きをするかわからないにしろ,この本音が持つことは,やはり深刻だ。

 これが教員高齢化の進む学校現場の現状だと思う。

 「不易と流行」というは容易い。
 教育は「不易」の面の強さ,大きさに支えられていると思うが,それは「流行」を取り入れなくともいいということではない。
 「流行」こそが「不易」の芯を叩いてくれるし,ある意味で強固なものにするだろう。
 
 未来を生きる子どもたちへの影響が大いにある。
 流行の拒絶や消極性が強いことを自分でどれだけ意識してみるか…結構大変なことではないか。

 不安への目の向け方,どう転化させていくか,大きな課題と意識した。

「でっちあげ」に引きずられないために

2012年03月07日 | 読書
 教員に薦めたい本である。
 いわゆる教育書ではないが、これは読んでおいて損はないだろう。

 『でっちあげ ~福岡「殺人教師」事件の真相~』(福田ますみ 新潮文庫)

 かすかにそんな事があったかなと頭の隅で思ったぐらいだった。
 もしかしたら,教育界ではかなり有名なことなのかもしれない。

 新聞でも週刊誌でもワイドショーでも取り上げられたらしいが、遠くの地で起こった、とんでもないことをする教師もいたもんだといった程度でしか受けとめていなかったのだと思う。

 しかし、「史上最悪の教師」と題された序章を読めば、やはりこれは本当のことなのか、あり得ることか、真相とは何だ…と思わざるを得ない。それだけ語られた「報道の事実」は強烈だ。

 そして読み進むにつれて、どうしてそうなるのか、どこで間違えたのか、どこで止めればよかったのか、あの時ああすればよかったのに…といった対象への同化感情がわき起こったり、少し醒めた目で、原因はあそこだった、この人の姿勢が問題だ…といった分析的な視点で見えたりする内容だった。

 こうした裁判に関わるドキュメントという性質上似たような記事や陳述が何度も繰り返されるのが気になるが、それが逆に作者の根掘り葉掘り的な作業の緻密さを表しているのかもしれない。

 読みながら考えさせられるのは、大きく二つ。

 学校及び教育界の抱える体質に対して、教員個人が備えておかなければならないことは意外と多く、かなり綿密であるべきだということ。

 もう一つは以前から言われているが、マスコミはいつの場合も結論を決めてかかって取材することが多いということ。

 そして大事なのは、職場であれ、プライベートであれ、周りに信頼して相談する人がいることのように思った。
 そのごく平凡なことに気づき、その平凡なことさえ大事にできない日常を送っていないか、そんなことも気になる。

 とにかく、このような事件があり,このような顛末となり、その時学校を含めた周囲はこう動いたという貴重な一例を知るだけでも、価値は高い。

 (注:ネット検索をしてみると,この著書自体が「でっちあげ」だと論ずるサイトもある。出版社同士の諍いや宗教関係も絡んでいるような気配で,「真相」にはたどり着けてはいないかもしれない,という思いが残った。)

平凡で劇的な誕生日の物語

2012年03月06日 | 雑記帳
 今年は啓蟄と重なった我が誕生日。

 秘かに「誕生日休暇」をとろうと目論んでいたが,週明けでしかも例年より仕事が詰まっているので,そうもいかなかった。
 娘も研修に出かけ,家人と二人だけということになる。しかし,月曜であるし外食という気にもならないので,ふだん通りの平凡な一日となろう。

 さほどインフルエンザも広がりを見せず,ほっとした月曜の朝である。。
 9時頃から卒業証書の氏名書きを開始した。合間にいくつかの用事を果たし,午前中で半分以上進んだ。
 給食,昼休み後の読書の時間を使って,中学年が音読交流会をするというので,聴きに行く。
 三年生は「百人一首」,四年生は今まで学習してきた「詩」の発表。中学年らしい溌剌さがあった。結構なレベルだったと思う。

 午後からは証書の続き。ざあっと完成させ,あとは後日に確認することにする。その後,学校報に取り掛かり7割方スペースを埋めた。
 退勤後,行きつけの書店で文庫本2,コミック1,雑誌1を購入。百円ショップで,卒業祝賀ビデオ!の小道具を一つ買い求め,帰宅した。
 
 家人はもうすでに夕食の準備に取り掛かっていた。
 ふと見ると,カウンターの上に一個のショートケーキがある。細い一本のろうそくが立ててある。

 さすが心優しき我が妻…別にケーキ好きではないが,やはり縁起物?でもあるし,形が欲しいのは誰しも同じであろう。用意するその心根が嬉しいではないか。

「あらっ,ケーキ」
というと,
「誕生日だもの」という返答があったが,妙に怪しい笑顔をする。
しばらく間があって,
「これ,昨日の」
という言葉。

「えっ,昨日?なに?」

「昨日の,向かいの…」
と濁している。

 えっ・・・・前日は,向かいの家のお葬式。午前から夜まで様々な式,供応があり・・・・ああ,このケーキは引き出物のお菓子・・・・
 驚愕の展開である。

「それは,ないべえぇぇ」

「だって,食べなきゃいけないし…。92歳で天寿を全うした御祖母さんにあやかれるかもしれない」

 素晴らしい言い訳である。微笑みながら言うな。


 その後,初老夫婦二人の食卓の前に置かれた,小さな紫色のショートケーキ。
 細い一本のろうそく。

 「ハッピーバースディ」と軽く言って,火を吹き消す前に合掌してみせると,思わず笑いがこぼれ,終いに吹き出してしまった。

 その息で,ろうそくの火が消える。

 延命長寿は約束されたか。

 乾杯。

「あの日」からのことを考える本

2012年03月05日 | 読書
 『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(高橋源一郎 河出書房新社)

 高橋源一郎の本は読んだことがなかった。
 「詩のボクシング」の解説者,古くは競馬番組の司会?などのイメージしかないのだが,まあ相当な?小説家らしいということは,なんとなくわかっていた。

 この本は,前半がツイッタ―上にアップされた「日記」で,後半が雑誌等で書かれた「文章」(の一部分)という構成になっている。「あの日」とは,言うまでもなく3.11である。

 「はじめに」に次のように記されている。

 ここには,「あの日」から,ぼくがツイッタ―上に「放流」した「ことば」も,それ以外の場所で書いた,作家としての「ことば」も入っている。

 どちらの「ことば」もよく似ているとして,こんなふうに結ばれている。

 それらの「ことば」は,以前よりもずっと,あなたたち読者に届けばいいのにと強く思って,話されたり,書かれたりしている。

 作家がこんなふうに書く必要はないのかもしれないが,その直截な表現には惹かれるものがあった。

 後半もいいのだが,ツイッタ―で放流された前半の方が,より響いてきた。
 「小説ラジオ」と銘うって一つのテーマで連続ツイートしたいくつかは,自分の心の中にもある靄をはらってくれるような気さえした。

 「祝辞」⑰ 「正しさ」の中身は変わります。けれど,「正しさ」のあり方に,変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は,じつは簡単です。けれど,「正しさ」に抵抗することは,ひどく難しいのです。

 「分断線」⑤ 本来,誰よりもも共に戦うべき人たちの間に引かれてしまう,見えない線がある。見える線を挟んでの応酬は,どれほど厳しいことばが行き交っても,ある意味で健康だ。誰と誰が対立しているのか明らかだからだ。だが,見えない線を挟む沈黙の応酬は暗い。無言の嫌悪の視線がそこにある。

 このほかに,「祝島」と題された連続ツイートの中に書かれたことに,自分の人生観を揺さぶられる記述があった。
 怖くて表に出さないまましばらく抱えておくべきかと思っているほどだ。

 そこで取り上げられた「祝の島」という映画を観てみたいと思うし,昨年書かれて話題になった著書『恋する原発』などを手に入れて,少しずつ読み進めていきたい。

 生意気なことを書けば,感性が近い人かなあと想像したりする。
 そもそも高橋源一郎を読もうと思ったのは,敬愛するU氏やI氏絡みで(なんでイニシャルか?)よく登場するからだった。
 共通して流れる空気にこのまま染まっていくことが嬉しいような,怖いような…。

イタイ字さがし

2012年03月03日 | 雑記帳
 以前,自分の名字は「沼沢」で通していたのだが,娘が小学校に入るときに確認されて,そこから「沼澤」を使うようになった。それまであまり気にも留めず簡単な方でいいだろと思っていたし,世間もあまりうるさくなかった。
 しかし,この頃はずいぶんと様変わりしている。自分もだんだんと風潮に染まり,心の隅っこではドウデモイイと小さく囁きながら,一応配慮は怠らないようにしている。

 今年も卒業証書に氏名を書くシーズンとなって,担任に正確な書き方を確認してみた。

 「」と「」のことは予想していたが,それ以外に二つの指摘があった。

 一つは「」。これは,最終画をとめるかはらうか。

 もう一つは,「」。「條」の右部分を「条」と書く字だという。

 ドウデモイイという心と裏腹に,本当にそうなのかという探究心が出てくるところが自分の面倒くさい部分である。

 「藤」のことは,それはないだろうと思った。
 「学研大漢和辞典」には載っていないし,家の人の単なる思い込みだろう,まあ念のためにとネット検索をする。
 通常の書き順を扱ったりするページには,わざわざ「水」にしないことなど但し書きがついている。

 がしかし,「外字一覧」のようなサイトを発見,そこであれあれ探してみると,なっなんと,最終画を右はらいにする字があったではありませんか。

 ありゃりゃりゃりゃ…。さっそくプリントアウトし,担任とともに驚きを分かち合った。

 「篠」の「条」,これはあるだろうな。
 大漢和辞典には,その部分を「条」と書くのは「異体字」として位置づけられていた。
 なるほど,ちなみにマイ電子辞書の「筆順大辞典」ではどうか。

 ええっ,これはもう最初から「条」ではないか。

 あれえ,どちらが異体字?

 このPCでは,ほとんどの字体が大漢和の形なのに…行書体でくずれるのならわかるが,最初から「条」の辞典もあるとは…。そしてなんだかこれも最終画をとめるか,はらうかもまちまちのようだ。

 この「異体字」というのは曲者ですなあ。
 結局異体字というのは,新字,旧字の違いとともに,手書きによる個人差から生じたものもあるから,どこまで拡がって認識されているかどうかなんだなと思う。
 調べたことで自分もこの二つの字については認識したので,それはそれでもいいが,知ることによって益々一般化できなくなるという側面もあるので,いやなところに足を踏み入れた気分もちょっとする。

私の本音は「潮来笠」

2012年03月02日 | 読書
 『しぐさに隠された大人の本音』(齊藤勇 蒼竜社)

 時間のかかる移動のときは文庫本や新書を持参するのが常だったが,どういうわけか今回はバッグに詰め込まず,旅先のコンビニでやむなく手にした本だ。
 期待していたわけではなく,予想通りのあまり新味のない内容だった。

 ただ一つ,へええぇぇぇっと思ったのが,この項目だ。

 右上を向いて話している人は「嘘」をついている

 この信憑性はともかく,面白い目のつけどころだ。解説にはこうある。

 「人間の視線を向ける方向には意味がある」とし,

 過去の記憶をたどるときは左上を向く。逆に,経験のないことを考えるときは右上を見る傾向があるのだ。

 と記されている。
 どうだ,どうだ。自分はどうだ。

 そんなふうにしているものか,振り返ろうとしたら,ちょっと右目が上がったような…いや,この場合は左が上がるのか。
 意識してしまうと駄目のようだ。

 「質問した後に目の向きをチェック」とポイントが記されているが,これが本当なら実に興味深い。
 授業において,問いを発したあとの子どもたちの目や顔の動きで,解決の仕方のパターンがわかるかもしれない。
 とにかく,既習事項を思い出して当てはめようとする子は左上を見て,新しい発想をしようとする子は右上を見る。(と,あてはめることができる?)

 面白い見取りになるかもしれない。
 左右を勘違いしそうなのが玉にきずだが,一度じっくりとそういう視線で観察してみたい。
 もし橋幸夫の「潮来傘」のような動きをする子がいたらどうしよう!
 (なんじゃあそりゃあ,誰もわからんやろ!と一人ツッコミ)

 さて,「見取り」に関した本を読んだとき同様に,「足」が見る一つのポイントであることは,ここでも同じだった。
 「しぐさ」は,「仕草」とも書き「仕種」とも書く。そのことは以前にメモしてあり,また読み直してみた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/c2ee52b4cc83bc7f506e89c9e0c60002
 「種」が表れる場所は,ある程度決まっているのか。

特別な約束の日の窮屈な自分

2012年03月01日 | 雑記帳
 昨年末に『天地明察』という小説を読んだとき,「暦は約束だった」という一文に魅かれた。

 その意味では,今日2月29日は「特別な約束の日」である。

 実は数日前に,この29日って得なのかな損なのかな,とふと思いが浮かんだ。給料が同じなのに労働する日が増えた…これは損した!なんて,どうでもいいような,日曜や祝日や振替のことを考えると全く意味をなさないようなことを思った自分が恥ずかしかった。

 生きている毎日の一日には違いないわけで,過ぎてみれば特別でもなんでもないのか。
ところが,愛読する『ほぼ日』サイトを朝読んだら,こんな挑発的な記事が…。
 http://www.1101.com/20120229/index.html

 さすがだ。
 さっそく,休暇をもらい… … … といかないのが,世の常である。

 しかし,この特別な約束の日はやはり記録しておくべきか。
 その中に,一つでも特別なことがあり,いや特別なことをして書き留めることができたら,それも『ほぼ日』気分だ。

 朝,PCでメール等のチェックをしてから,朝風呂読書。
 昨日買った『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(高橋源一郎 河出書房新社)を半分ほど読み進める。
 考えさせられる。この感想は後日に。

 テレビでは都心の雪の情報。秋田は週間予報で一つも雪マークが出ないという嬉しい見通し。
 出勤前に,融雪用に出している自家水道の調節をして,消雪のために向きを変える作業を少々する。

 曇り空であるが,結構冷えて路面が凍っている箇所もあり。注意して運転する。これからの季節も結構気を遣う。7時50分出勤。
 現在,勤務先ではインフルエンザのために閉鎖中の学級がある。そしてもう一学年拡がりつつあるクラスがあり,検討した結果,明日からの閉鎖を決める。PTAがある週であるがやむを得ない。

 地区児童会が2校時にある。カメラを携え,ひと回りする。新年度に向けて役員交代の時期。積極的にやりたがる子,照れているのか即答できない子と姿は様々だ。
 役割を与えられ,担い,人は成長しいていくと思う。引っ込み思案の子の背中を押してやりたい。

 教委に学級閉鎖の連絡をして,保護者へのお知らせ通知を作成。
 続けて週版の保護者向け学校報43号も完成させる。今年度もあと少し,地域全戸版と合わせると50号は突破しそうだ。
 そのまま,ホームページに地区児童会の写真をアップする。
 http://www.yutopia.or.jp/~miwasho/

 ここでお昼。
 給食はビビンバ丼。閉鎖の学級があるためか,盛りがいい。おいしくいただく。

 少し休憩してから,もう一回,三月行事予定と中学年で掲示されていた版画の写真などをホームページ内に編集する。
 その後,教委へ出す書類を整備,捺印して整える。

 会議が三時半にあるので,自分から出す資料を印刷し,残った時間で校長室の行事黒板を書き直す。三月下旬の慌しさが近づいてくるなあと感じる。

 他校からの参加者がきて,会議開始。今年度の反省,新年度の動きについて確認。町内の研究組織のことだが,いろいろな意見が出るけれど「本質」を見失わないようにしたい。

 五時ごろに終了。職員室にもどると,もう一つ今日まで仕上げる書類があると報告されて,その点検と修正をする。今日の会議で決まったことなどをコピーして関係者に配布。机の上がやや散乱気味なのでとりあえずの整理をして,退勤する。

 玄関を出たときにちょうど六時のチャイムが鳴った。久しぶりにきれいなグラデーションの空だ。朝の天気予報で夕焼けのことにふれていたが,まさにその通りだった。あと10分ほど早ければいい写真が撮れただろうと,窓の外に目をやれなかったことを悔やむ。

 家に帰って,また自家水道の調節。風呂。夕食に娘が隣国で体験?してきたキムチが出る。美味しくビールが飲める。週末あたりから胃痛がしていたが,少しずつ収まっていることに気づく。これも嬉しい。

 サッカー,アジア予選。またこのスポーツ観戦のイライラ感を感じた。ただ,欲求不満も眠気には負けて,ベッドに倒れこむ。

 おそらくこの時期の典型的な一日だったろう。
 29日でなくとも,27でも28でも出来たのに…と思うと,やっぱり「サボって」特別な一日にすればよかったと思ってしまった。
 でも,そのためにはずっと前から計画していないと出来ないし,そう考えるとずいぶんと窮屈な暮らしをしているもんですな。