すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

いろいろな春を、とる

2012年05月15日 | 雑記帳
 振替休業の昨日は、朝から山菜とりと写真とりに明け暮れた。

 毎年のいつもの場所に出向くと、ねらっていたタラノメは確かにあるのだが、やはり背が高すぎて難儀する。
 木の幹が腕よりずっと太いのだから、その高さが想像できると思う。
 
 中ほどの枝の先端はぶら下がってどうにか採ったが、それ以上の上は全然駄目で、あざ笑うように少し葉を広げ始めている。
 来年こそは何か手を考えてと思いながら、そこを後にした。

 細いけれどタケノコやワラビも顔を出し始めている。
 それもいくらかの収穫があった。

 その後は、今ちょうど満開を迎えているはずの、某公園へ。
 秋の紅葉もカメラポイントとしてきているけれど、この時期がやはりいい。

 ネット上の情報で東北の桜の名所とされている箇所では、唯一ここだけが「満開マーク」。
 といっても、染井吉野や江戸彼岸ではなく、八重桜そして黄桜である。
 月曜だけに人出はあまり多くなく存分に撮ることができた。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/2012-641b.html

 いろいろな春があっていい。
 いろいろな姿があっていい。

 緑が萌えはじめているこの季節が一番好きかもしれない、とここ数年ずっと思っている。
 花粉が治まるころということもあるかな。

音頭が導いていく

2012年05月14日 | 雑記帳
 前日からの雨模様で屋内での開催になってしまった運動会。
 走競技がない寂しさはあるものの、元気よく楽しい半日を過ごすことができた。
 例年、種目の一つとして、地元の「稲川音頭」を3年以上の全員が踊り、その後参加者も加わって踊る形となっているようだ。
 父母の方々や1,2年も見様見真似で後にくっつき、微笑ましいフィナーレとなった。

 ここに限らず「○○音頭」と称されるものはたくさんあるなあ、と頭に浮かんだとき、「音頭」という言葉が少し気になった。
 こんな予想を立ててみる。

 音頭→おんど→「頭」が「ど」?→これは「どう」から来ているか

 音頭→「音の頭」の意味は?→乾杯などのときに「音頭をとる」という→何かの先陣をきるということか


 広辞苑を見たら、おおよそ合っていたようだ。

 Wikipediaには、なかなか興味深いことが載っていた。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E9%A0%AD

 やはり「頭」は人を指すところから来ている。
 「組織の長」「上に立つ人」の意から、みんなを連れていく、導く者という意味につながったのだろう。「船頭」や「教頭」もそうだ。

 
 さて、これはまったくのこじつけ、勝手な妄想だが、「音が頭」という発想もなかなかよくないか。

 つまり、詞よりも曲、意味より音が優先される世界。

 ♪チャンチャラカ、チャンチャラカ♪といった調子のよさに乗せて歌われる世界は、ほとんど同一のもの…おそらくは平和を願ったり、日々の喜びを確かめたりする、それらは詞に表れているのだが、結局は曲によって、音によって、それから繰り返し高揚されていくことには違いないのだから。

 いかんいかん、これはどうも最近、意味より音みたいな傾向を強めている自分が、少し迷走始めているようだ。
 まあ、それでも良いか、チャンチャラカ、チャン。

 「音頭」で検索したら、Wikiの次に「秋田音頭」があったのには少し驚き、嬉しかった。なんせ「ドラえもん音頭」や「東京音頭」を抑えての上位ですから。

与えられ続けてきたツケ

2012年05月12日 | 読書
 「感動」という言葉からの連想として,国民的人気があった?某首相の「感動した!」がすぐに思い浮かぶ。同様の人も多いだろう。
 もう一つ仕事がらみで言えば「感動は教育できるか」という問いがある。
 国語教育の場に分析批評が勢いをもって登場したとき,この言葉のインパクトは強かった。
 あれから長い時間が経ったが,それぞれはどのような決着をつけているのだろうか。

 『「感動」禁止! ~「涙」を消費する人びと~』(八柏龍紀  ベスト新書)

 珍しい名字の著者はなんと秋田県生まれの学者さんであった。

 「感動をありがとう!」はおかしい,とまえがきに記してある著者の問題意識は,共感できることが多かった。
 団塊世代が生まれ育った時代から現代に到るまでの社会認識について,特に目新しい見方が示されたようには思わないが,その流れに,いわば「感動」のデフレ状況を位置づけたので,なるほどなるほどと読めた気がする。

 結果として今世の中(特にマスコミを通じて)で流される「感動」というものの変質,いや根本的には「感動」という言葉で括ってはいけない感情や気分で満たされているだけに過ぎないのだということを改めて考える。
 それはうすっぺらで,刹那的,表面的である。そういう自己本位のレベルになっている。まさに,消費文化によって肥大してきた一つである。

 自嘲的になるが,その意味で「感動は教育できる」。
 正確には,「感動に似た気分は,教育できる」。
 もっと細かくは「感動に似た気分は,情報誘導できる」。
 (あまりにも短絡的か)

 年齢的にもう涙腺が弱くなっているので,ドラマや音楽で仮にそうした状態に陥っても,別に感動しているわけではないと,もう一人の自分は冷静に見ている。
 しかし,だからと言って,そんなふうに見分けがついたとしても,本物の感動が近づいてくるわけではない。それもわかっている。

 著者はこうまとめる。

 まずは,共有する情感や意思を織りなす糸が必要だろう。いま求められていることは,自己と他者とを結ぶ言葉の回復なのだ。

 言うは易し,である。
 まだその前に行うべきことはあるような気がする。
 自己の情感や意思について,もう少しじっくりと内面視したり,日常自分が使っている言葉を点検してみたり…。
 安い情報の垂れ流しにつき合っている時間を削ることから始めるべきか。

 感動は商品ではない。
 商品価値のなかに,感動に結びつく要素があるだけで,自らの感性で引き寄せるしかない。
 与えられ続けてきたツケがかなり溜まっている身体だという自覚が必要だ。

字を解く、二題

2012年05月10日 | 雑記帳
 その壱

 「漢字の成り立ち」を学習している担任から,いくつか尋ねられた。
 その中に「明」のことがあり,「ああそれは会意文字」と思ったが,念のため調べてみる。

 「日」はじつは「囧(ケイ)」という字で窓を表わす。これは「窓からの月明かり」を指している。かなり以前実践したかすかな記憶がある。
 さて,『学研大漢和辞典』に添えられている説明がいいなあと心に残ったのでメモしておく。

 あかるいこと。また,人に見えないものを見分ける力を明という。

 シンプルだが力強い。
 そういえば,この頃「明」「明子」という名前の子も見かけなくなったなあ。
 当て字のような,語呂合わせのような名づけばかりで,時にはずいぶんと勇ましい名前もあるが,字面とうらはらなひ弱い子も多くなった。


 その弐

 調べたい言葉があって『類語辞典』を調べて,見かけてしまった文字。

 「屹度」

 恥ずかしい話だが,こんなふうに書くとは知らなかった。
 私だけではないかもしれない。

 「きっと」である。そこには「◇『急度』とも書く」と添えられている。そちらも知らなかった。
 気になって,広辞苑で調べてみる。

 意外なことに「時間的にきわめて短いさま。急に。すばやく~~」が最初に載っている。
 次も「きっぱりと,きりっと」という意味になっていて,ふだんよく使うはずの「必ず」という意味は三番目である(『明鏡』は反対である)。

 「屹」が気になる。
 「山へん」なのである程度予想がつく。
 「屹」は「そばだつ」「高く動かずにたつさま」である。

 そこには,「乞」が象形文字であることが説明されていて,「下からむっくとおきてきたものが,上につかえて曲がるさまを描いた」とある。知らなかった。

 なるほどと思いながら「乞」のページを開いてみると,ちょっとニュアンスの異なる説明がある。
 「ふたを押しのけてつかえた息が漏れ出るさまを描いた象形文字」

 ええっ,同じ辞典の中で,こんなことがあるのかという,新しい発見。

 一つの文字の成り立ちや意味は,同じ辞典にあるから説明も屹度同じはず,という考えは当てはまらないことが,らかになった。

画像にある横の何かが気になって

2012年05月08日 | 読書
 連休中の一夜,今年はどこにも出かけないので,ということで軽く食事会をしているとき,昨年の弘前の桜の写真を見てみようとパソコンに映し出した。

 城門のところで家族全員で撮った写真が出てきたら,ぷっと娘が吹き出した。
 たまたま横にいた車椅子のご老人の位置と目線が非常に写真にフィットしていて,「まるで家族のようだ」と笑う。
 なるほど,前後の位置のずれが合って撮られている私たちはその時全然気付かなかったが,まさに見知らぬ一人が仲の良い家族の一員になったような形で写っているわけである。

 これに類した写真は,テレビや雑誌などで「○○の瞬間」のように名づけられて取り上げられることがよくある。偶然が生んだ一つの造形?として単に面白いと済ませてよいことなのだが,それを喜ぶ心理はどんなものだろうと,少し連想が広がった。

 連休中に、たまたま読んでいたのがこの本。

 『青空の方法』(宮沢章夫 朝日新聞社)

 十年ほど前に朝日新聞夕刊に連載されたミニエッセイをまとめた著書である。
 このなかに「横の何かが気になって」と題して,スポーツ中継などでそこに映し出される「携帯電話で話す人」に着目した文章がある。
 ああ,そういうことはよくあると今更ながらに思う。
 マラソン,駅伝など携帯に限らず,一緒に走る,自転車,かぶり物,旗でアピールなど,同じ場所で同じように展開されるものもある。そして視聴者である私たちも,競技よりそっちの方に目がいって,盛り上がってしまうこともある。

 写真のこととまったく重なるわけではないが,「横の何かが気になる」のは,画像というライブ的なメディアの一つの宿命なのかもしれない。
 一枚の切りとった場面,また連続する場面には,そのねらいや方法に応じて,主となる対象は確かにいるが,それ以外の情報も本当に多くある。
 もちろんそこで焦点化や集中性が発揮されるわけだが,毎日流されるマス・メディアの中で,どうも私たちは,横の何かを気にさせられて,本当に核となるものに迫ることができないでいるのではないか…そんな心配も浮かんでくる。
 逆に言えば,そういうメディアを通した情報誘導や操作は思いのほか考え抜かれているのかもしれない。

 単純に考えれば,手は二つだろう。伝えたい情報以外をシャットアウトする,周辺も含めて情報を組み立てていく。
 今どきの視聴者を考えれば,後者が力を発揮することは間違いない。

 一枚の写真をきっかけにあちこち足を踏み入れ,また迷子になりそうだが,今思うのは「車椅子の老人」にこの写真を送ってあげたいな(でもどこの誰やら)ということと,そしてスポーツ中継の横の携帯電話の声が,テレビ画面で選択して聞こえるようになれば面白いな,ということ。
 このまま進むとどれも実現しそうで,それまた怖いと感じる。

連休は老子モードなのだ

2012年05月07日 | 読書
 この連休中に、2冊の「老子本」?を読み終えた。

 『タオにつながる』(加島祥造 朝日文庫)

 『バカボンのパパと読む「老子」』(ドリアン助川 角川SSC新書)


 老子についてはほとんど知識がなく、言葉として「老荘思想」は知っているが、さて説明せよと言われれば口をつぐむしかない。

 で読んでみて、何かわかったかと言えば、それもなかなか説明するには難しい。
 しいてイメージできたことを言葉にすると「究極の複眼的思考」…そんなところだろうか。


 『タオにつながる』にある印象深い言葉をメモしておきたい。

 名の有る領域と、名の無い領域

 「名づけ」は秘かに自分のテーマでもある。それは名の無い領域についての「怖れ」から来ているようにも感じるが、実はそれ以前にの「畏れ」を感じ取る身体になっていない気がする。


 『バカボン~』はユニークな形式だった。
 バカボンのパパ口調がこんなに合うとは思っていなかったのだ。

 赤塚不二夫の作り出したこの唯一無二といってもいいキャラクター、バカボンのパパは、ピントをはずしている人でなく、ずっと遠くにピントを合わしている人なのだ。

 たくさんの味わい深い言葉があるが、あえて一つ挙げれば、これだろう、なのだ。

 天網恢恢(てんもうかいかい)   ※恢は旧字体


 天気の良くなかった連休。
 予定していた行楽地の花見はキャンセルした。
 最終日に、いつもの地へ足を運んで、今年の桜を撮ることができた。

 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/2012ck-7f8d.html

 誰一人訪れはしなかったが、野鳥の声は響き渡っていた。

声日記リターン

2012年05月03日 | 雑記帳
 前任校のときには『声日記』と名づけた校内報を不定期に出していた。
 今年度は、まだ心の準備中(笑)であり、スタートできていない。

 もし4月に出せたとすれば、「子どもの声」として入れただろうなあと思うことを、二つ書き留めておきたい。

【その1】

 月半ばの日曜の朝、PTA主催による廃品回収があった。
 空き瓶や古紙を収集するのだが、業者の方がダンボール専用の車を持ってきていた。
 ダンボールを巻き込んで押し込んでいく装置があり、そうやって詰めていくと2.5トンぐらい入るのだと聞いた。
 ぐるぐる回る機械の動きがダイナミックで面白いのか、子どもたちが興味深そうに近寄りながら「おおうっ」とか「かっこいい」とか言っている。

 その場にいた2年生のZ君
 「すげえ、リサイクルマシーンだ!」
 トラックのボディに「リサイクル」という名前がついているのを見て、言ったのだろうか。
 そして、次の一言が奮っていた。

 「オレもリサイクルされてえぇ」

 今から不用品になってどうする。


【その2】

 ランチルームでの給食も3年ぶりである。
 今月は6年生のテーブルが割り当てられ、一緒に食べている。
 最初の10分は食べることに集中ということで原則会話禁止なのだが、終わるとやはり子どもらしく談笑が始まる。

 ある日のこと。一人の女の子が隣の子に話しかける。

 「ねえねえ、知ってた。昔は土曜も学校があったんだよ」

 「ええ、ほんと?」

 「うん、お母さん、言ってた」

 「へええ、きついねえ」

 こちらの顔を見るので、思わず答える。

 「そう、昔は土曜日もお昼まで学校だったのじゃ。それから月に1回土曜が休みになってのう、その後に2回に増え…」

 なんで、おじいさん口調になる。

 20世紀も遠くなりけり。

ある問いに揺さぶられる

2012年05月03日 | 雑記帳
 最近ちょっと悩んだことに,PTA広報部からの原稿依頼があった。
 よくある企画で「新任の先生方の紹介」ということで,三つの設問が用意されていた。

 ①出身小学校と思い出
 ②好きなもの苦手なもの
 ③もし先生になっていなかったら


 これらの内容はそんなに珍しいものではないだろう。
 しかし,何ゆえか③の問いに引っかかってしまった。

 質問の意図は,おそらく「小さい頃になりたかった職業」とか「憧れている(いた)仕事」を聞き出したいものだと思う。
 もちろんそれならいくつか簡単に挙げられるのだが…なぜか,本当にこの教師という仕事につかなかったら今頃何だったのだろうという思いが,まず初めに浮かび頭を支配してしまった。

 結局脱け出し,憧れ気分のままに「人生の楽園」っぽいことを書いて,紙幅を埋めたのだが,またその後に最初のその問いが結構付きまとってくれて,どうでもいいことをあれこれ考えてしまった。
 きっと,まだまだ時間はあると思ってはいるが,仕事のゴール(定年)がうっすら見えてきたことが原因なのかなあ,淋しさのようなものが一瞬過ぎった。

 それはそうと,私たちはつくづく文脈を読むものである。
 単純に「もし先生になっていなかったら」という問いに続く文など「~~になりたかった」という答え方の他にも無限にあるではないか。

 もし先生になっていなかったら,給料がないので困る
 
 もし先生になっていなかったら,いろいろなストレスがなくなるから,うれしい。

 もし先生になっていなかったら,遠足についていかれない。

 もし先生になっていなかったら,毎日酒量が増えるかな。
 
 もし先生になっていなかったら,それでも世界は一つも変わらないだろう。

 ほとんど宮沢章夫状態である。

 それを聞いていったい何がわかるというの。それがわかれば何かいいことあるのか。
 「ホームレス」などと答えようものなら,それを馬鹿にするのか。「大富豪」と答えれば,「けっ,なれるわけないのに」とか蔑むのか。
 いやいや、そんな感情的にならずに、ただ、なりたかった職業を訊いて「人となり」を知りたいだけなのだよ…。

 そう考えると、やってしみたい仕事など100も浮かんできそうだ。

 そしてまた、浮かんだ様々な仕事の多くを兼ねられる気分になる?教師という職業の魅力に気づいたりする。

からだに読み書きさせる

2012年05月02日 | 読書
 予定よりひと月遅れの読了となってしまった。
 一部で評判の高い著書だったが,たしかにその通り,ずしんと手ごたえのある一冊だった。

 『視写の教育 ~<からだ>に読み書きさせる』(池田久美子 東信堂)

 視写は,乏しい自実践の中でも少しは腰を据えてかかった分野である。
 ひとつは,青木幹勇先生に学んだ,読解の授業過程への位置づけを通してである。もう一つは家庭学習との連動を図った学力向上策としてである。

 いずれにしても,視写でどんな力が育つか,その時点でぼんやりと見えていたものが,この著書によってすっきりとしたような気がする。

 著者は,大学教師のキャリアしかないようであるが,あとがきを次のような文章で締めくくっているではないか。

 「今,子どもの書字経験がめっきり減っている。小中学校でこそ視写が必要なのだ。」
 本書がこの危機感に応え,小中学校での視写教育を考えるための一助になれば幸いである。


 この観点で考えていくためには,時間がかかりそうだ。
 しかし取りあえず,自分の中にとどめておきたい文章を引用しながら,考えをメモしておきたい。

 視写は,他人(ひと),つまり視写する文章の書き手とのコミュニケーションである。

 この前提は大きい。コミュニケーションの取り方は多様であり,そこに活動のねらいが生まれてくる。

 直接,鉛筆やペンを持ち,紙に書きつけていく意義を今さら繰り返すまでもないと思うが,筆者の表現は本質をついていると思う。
 キーボードの打鍵ではなぜ駄目か。このように記している。

 <筆触>を無用にした代償は大きい。それは文章に対する無自覚を生む。そしてまた,その無自覚を発見する機会を奪う。

 これを学習させるために必要なことは,この著書から言えば,量的な保障,形式の設定となっている。これは小中生でも同様だ。

 学習活動としてどう具現化するかという点についての原則が,不足なく書かれている本だと思う。

 作者の主張は,副題として添えられている「<からだ>に読み書きさせる」ことだ。<からだ>と括ってあることは目,指,手を中心とした感覚を通して,身体内部に知識や理解,意欲や態度を養っていくことを表わしている。

 学びの身体化へのアプローチは数々あるが,その中で視写はもっと重視されていいと改めて強く思った。

五月にはごろごろある

2012年05月01日 | 読書
 ブータンブーム?もあり,「幸福論」が流行っているようだ。
 興味ある分野だが,単行本を揃えて読むほどではない。軽く雑誌で読み流す程度である。そんななかで,久しぶりに買った「プレジデント」誌の冒頭論文がなかなか面白かった。

 奈良雅弘という方が「頭の中にひそむ『幸せ泥棒』撃退法」と題して記している。

 そもそも幸福とは何なのか?と切り出して,「福」「幸せ」「幸い」との比較を辞典の記述から解説しているところが,いかにも自分好みである。

 そこから読み取れる他の感情(喜びとか怒りなど)との異質性として,次の二つを挙げているところがわかりやすい。

 持続時間  総和性

 そう考えると,震災後に特に強調された気がする「ふつうの幸せ」とか「当り前のことができる幸せ」という言い方は,明らかにそうした「比較的長く続く生の肯定的感覚」としての感情にあたるだろうなと,妙に納得した。

 幸福のかたちとして,次の二つがあるという見方もなるほどだ。

 達成型  偏在型

 そして,日本人の多くは「達成型」を求め,そういう道を歩んできたが,まさしく壁にぶち当たっている。次の分析は確かであろう。

 資本主義の最先端をいくがゆえに,いち早く直面することになった,近代的な「幸福なかたち」の限界。それこそが,「欲求の満たしにくさ」や「負の感情への陥りやすさ」を生み,日本人の不幸感を高めている

 形づくりの型を言い換えれば,「なる幸福」と「ある幸福」。

 目指すべきは決まっているのだが,それを決定付ける二つの構造,つまり社会と自分の思考がそれを許すか。
 まあ,自分の思考ならば工夫次第だと,言いきってしまおうじゃないか。

 「ある幸福」のかけらなら,どこにだって転がっている。

 五月にはごろごろあるような気がする。