すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

一番強いことばを笑え

2012年07月17日 | 読書
 新潮社の季刊誌『考える人』は年に一冊か二冊は買っている。
 今回は特集が面白そうだったので手にして,この連休中にだらだら楽しく読んだ。

 笑いの達人

 「笑い」は自分の中でも8番目ほどのテーマである。
 かの有田和正先生が,「おかしくて笑うのではない。笑うからおかしいのだ」という理論?で実践なされたことを,「笑いの練習」という形で続けたことも思い出される。

 さて,今回の特集は読みごたえがあった。
 表紙にもなっている南伸坊の「本人術」をはじめ,南×養老の対談,そしてそれぞれの分野の方々がエッセイ風に綴っている文章もなかなかであった。

 なかでも橋秀実が「笑い療法士」「笑いヨガ」をテーマにルポしたものが面白かった。
 ここでの印象を括ってしまうと,この言葉となる。

 笑い散らす

 人類学者の山極寿一の書いている「ゴリラが笑うとき」という論考も興味深い。
 「サルの笑い」ということは以前どこかで読んだ気がする。敵意のなさを示すサインとしてとらえられているが,チンパンジーやゴリラはまた違う笑いも身につけているという。
 「遊びの笑い」…楽しさを相手に提案していく行動である。
 つまり,この動詞のなかに大きな意味がある。

 笑いかける

 もっとも印象的な「笑い」は作家高野秀行の書いた「彼女たちの矜持」というエッセイ。昨年の4月に南三陸の町を訪れ,現地に在住しているフィリピン女性たちの様子を書いたものである。
 その明るさについて驚いているが,なかでも「アメリアさん」なる女性の言葉には私も思わず,絶句するほど?笑ってしまった。
 その中身はあえて書かないが,いうなれば一番強いことばである。

 笑いとばす

 数々の笑いの達人の姿を見せられて,自分のなかでも「笑い」は3番目ぐらいのテーマにランクアップした。

一つの扉に向かう問題

2012年07月16日 | 雑記帳
 青森市での研究会,参加した分科会でちょっと興味深い話題が出た。
 敬称つまり,「さん」「くん」づけのことである。

 人権教育を推進するなかで,相手の尊重という意味合いだろうが「敬称」について徹底させたいという発表内容があった。
 「敬称で呼び合える学校づくり」を掲げ,「敬称で呼び合うことを厳守させる」というものである。

 それに質問をした方がいらした。
 なんと数年前に一般企業から校長に登用された方だった。
 小学校長への登用は珍しいと思うが,なかなか隣県もやるわい。事情はいろいろあったようだが…。
 
 それはともかく,その方は「『さん』づけは,子どもも職員もですか」と尋ねられる。
 そんなことは予想もしなかったのだろうか,単に聞き違えたのだろうか,発表者は最初「そうです」といったが,繰り返されてあわてて訂正。もちろん子ども同士の場合を指してのことであった。

 このあたりのやりとりは,やはり職場としての学校が特殊な環境にあるのだなということを考えさせる。
 職員同士が「さん」づけしている職場もあるにはあるだろうが,やはりごく限られるのではないだろうか。
 私個人としても,時々「さん」づけをやることもあるのだが(そんなに意識しないでできている時もあったりする,それはある時期の現場からの影響だということは自覚しているが)やはり○○先生という,子ども目線の呼称が圧倒的に多いことを認めざるを得ない。


 さてそれはそれとして,件の質問した方は,子どもとと手紙?ノート?のやりとりをしていて,「子どもは,呼び捨てを好んでいるが…」とおっしゃっり,そんな感じで呼んでいるようなニュアンスがあった。
 それに対して,多くの方々から反論や留意事項が出された。
 曰く「統一されているかが問題」「呼び捨てと『さん』づけでは,その後の言葉遣いに違いがでる」「公的な場として」「人間関係の問題」…。

 一般的な線は確かにあるのだろう。
 しかし,これが正しいあり方と断言できるほど強いものではない気がする。
 私にしても「近づく言葉,遠ざかる言葉」という観点で,やや技術的な問題に押し込めてしまっている。

 しかし,おそらくこの問題を突き詰めていけば,結局一つの扉の前に立つであろうことは予想できる。
 それはやはり「人権」と無関係ではない。

遅ればせの読書メモシリーズ④

2012年07月12日 | 読書
 確か4両か5両編成だった。
 ちょうど一週間前に乗ったその特急は(速度はおよそ特急のそれではなかったが)青森市の研究会へ向かう同業者の乗車率が極めて高かったはずだ。
 そこで読んでいたのが,この新書である。

 『生徒たちには言えないこと 教師の矜持とは何か?』(諏訪哲二 中公新書ラクレ)

 同じ本を読んでいる人なんているのだろうか,そんなことを感じつつ読み入ってしまった。

 1,2章では,著者の次の考えが繰り返される。

 学校ではまず「真実」(「ほんとうのこと」)ではなく,みんなから広く認められている「建前」(「とされていること」)を教えるべきである。

 公言しないけれど,その受け止め方の重みに差はあるのだろうけど,おそらく多くの教員が直観的に抱いていることではないか。
 まして小学校であれば,圧倒的に「建前」にそって進むのが基本であるのは言うまでもない。それは一般性と言い換えてもいいだろう。

 そんなふうに考えると,やはり小学校における教科や領域の指導において揺らがない面は大きい気がする。
 ただ,だからといって従来のように,旧態依然としたものでいいのだという論には結びつかない。

 それはきっと,「真実」も,そして「建前」も揺れ始めているからだ。
 学問上の真理であっても覆される。道徳性,公共心に込められた意味も変質しているのではないか。いや,そもそも「真実」も「建前」も揺れているものだ,ということに気づかなかったのだろう。
 そうすれば,授業も,仕事の仕方も変わらざるを得ないはずなのだが。


 青森で参加した分科会では,たくさんの「建前」が話された。
 けして悪い意味ではなく,「建前」を掲げてリードしていく立場の人たちが集まる会だから当然だろう。
 そして,ここにもし差があるとすれば,それはいかに「真実」を知っていて,「現実」と折り合いをつけているか,ということに尽きるだろう。
 現場に務めるとはそういうことだ。

 たくさんページ端を折った一冊となった。
 
 「真実」を考えるために,読書は貴重だ。
 遅ればせのメモも大切と,自己満足しよう。

遅ればせの読書メモシリーズ③

2012年07月11日 | 読書
 なかなかわかりにくい表現だなと思いながら,ついつい手を伸ばしてしまう一人に,吉本隆明がある。

 それは遠い昔の学生時代に,詩人として向き合った時期もあった。
 ここ数年は,明らかに糸井重里つながりで姿を感じている。

 『真贋』(吉本隆明  講談社文庫)

 そして今回この本を読んでいて,ああたぶんこういう言い回しに惹かれるんだなと感じる箇所がいくつかあった。

 長い引用だが,二つだけ書き留めておきたい。

 たとえば学校の先生の場合は,いいことを本当にいいこととしてはっきり言わないと子どもたちに通じませんから,いいことをもっともな口調で言うのに慣れています。でも,いいことをいいこととして言うと,みんなが道徳家になってしまいます。これはよい,これは悪い,こうするのはよい,こうするのはよくないぞと断じていくようになり,いつももっともらしい口ぶりになっていくわけです。それはある種の毒です。

 「教える毒」という言葉について論じている箇所である。
 「教える毒」…その意味のありかを自覚できるかどうか,そしてそのうえで教員たる姿勢を考えられるか,ううん,悩ましいところである。

 もう一つはここである。

 自分にとって真に重要なことは何なんだと突きつけられたら,僕ならこう答えるでしょう。その時代時代で,みんなが重要だと思っていることを少し自分のほうに引き寄せてみたときに,自分に足りないものがあって行き得なかったり,行こうと思えば行けるのに気持ちがどうしても乗らなかったりする,その理由を考えることだ,と。

 短絡的に,「思想家」ってもしかしたらこういうこと?と考えてしまいそうである。
 自分もいつもそんな感じで,ぐずぐず,ぐずぐずしていた。
 すっばり割りきれないことも,そんなに悪いことでもないか,という気にしてくれるような文章だ。

 著者が何かの正解を示しているか,と言えば,それはどうも当てはまらない。
 ひとつひとつあきらめずに考える行為こそが,生そのものだった人の独白のようである。

遅ればせの読書メモシリーズ②

2012年07月10日 | 読書
 この本もネット上で話題になっていた。

 『先生!親ってそんなに怖いんですか? 親対応の基本中の基本』(星幸広 立花書房)

 著者は警察のキャリアを重ねてきた方で,現在は学校の危機管理を専門に大学で教えたり,講演活動を行ったりしている。
 組織論,人間関係の調整を図る仕事論と括っていいと思うが,実に明快である。
 それはまた,学校という組織が外に対していかに脆弱かを物語っている内容だ。

 今学校に求められている「信頼のあり方」については,大きく再考すべき時期であることは間違いない。
 都市部ではもちろんだし,こんな田舎の学校においても,情報化社会がもたらした価値観の多様化への対応は時を待たない。
 保護者や地域社会に対して受容的にかつ友好的なスタンスを貫こうとするだけでは,現実的に立ち行かなくなるだろう。

 保護者の変化の理由として掲げられた三つの事項があった。
 その最後にある「長年にわたる学校の対応のまずさ・誤ったリードの積み重ね」は,具体的にこんなことではないかと,職員間で話し合っておくことも大切ではないか。
 「荒波を立てずに」「何より表沙汰になることを極力さけて」という事ばかりに目が向き,組織としての本質,教育機関としての役割に立ち戻れなくなってしまっていることを直視したい。

 大人を変えることは私たちの仕事ではない。
 子どもの変容を通して保護者や地域に働きかけることが主であろう。
 しかし今,組織人として,責任の重い職業に携わる人間として,ぴしっとした態度を持ち続け,厳として示さなければ,子どもの成長保障どころではなくなる。

 キーフレーズを挙げておくと,以下のようになる。

 常に積極策を
  
 情報の終着駅にならない
  
 問題ある保護者を取り込め


 もちろんクレームがないことに越したことはないが,クレームによって一皮むけることもあるし,本質的なことに気付かされる場合も少なくない。
 現に数か月前に痛切に感じたことがある。もの別れに終わったが,反撃?に転じられたのは,自らの信念しかなかった。

 見通しを持ちながら「攻めの発想」を手放してはならない。

遅ればせの読書メモシリーズ①

2012年07月09日 | 読書
 手に入れながら,なかなか感想を書き出せないままの本が結構溜まってしまった。
 今まで続けてきたことだから,夏休みに入るまでには,一応の短いメモを残しておきたい。
 まずこの本である。

 『対話がクラスにあふれる!国語授業・言語活動アイデア42』(石川晋 明治図書)

 国語科実践,学級づくり実践集として,とても魅力ある内容だし,多くの中学校,小学校高学年の教室で取り入れられたら楽しく活発な活動になるだろう。
 しかし,やはり肝心なのは第4章までの理論編である。
 石川さんが今までブログ等で語っていたことが整理されて,その立ち位置が明確にされている。
 「対話」は,流行りのキーワードだが,石川さんにとっては不易の姿勢なのだと思う。

 対話に慣れない,唯一解を求めたい,考え方に柔軟さを欠く私のような世代(こう括るのは極端かもしれない)にとって,遠くにあって,かつ眩しく光放つ存在のように見える。
 教育にとって,人との関係性をどう作り上げていくのか,という点は大きい。
 そしてそれは自分が今まで学んできた,築いてきたことを抜きには考えられないものだ。
 従って,WinWinを目指したり,相反するAとBからCを導きだしたり,それらの重要性を頭では十分わかっていても,心や身体で追いついていけないもどかしさを抱える人は少なくないだろう。

 自分もそう感じながら,それでも今年「共に学び,共につくる力を伸ばす」…こんなふうに目標を掲げた。
 この本には,そこへの筋道をたどるための,貴重な実践群があふれている。
 またそこにある自覚的な教授行為を取り出してみれば,新しい実践の創造のヒントとして役立つことも多いはずだ。

 現状を素直に語れば,「対話」と言いながら,かなり予定調和的なことに支配されている学校現場がほとんどではないか。
 自分で開けられる風穴の大きさや位置をしっかりと把握して,この本と対してみたら面白いと思う。
 著者が描いたデザインの形や色,その一部分であっても継続的に取り上げられれば,そこに生まれるものは小さくない。

読解法定着の思いつき

2012年07月06日 | 教育ノート
 先月に続いて,国語の実践研修会を校内でもった。
 形式は「模擬授業」「質疑」に今回は「演習」として「発問づくり」を行った。

 文学教材の読解をテーマに取り上げたのだが,模擬授業をするために改めて考えだすと,今までのふりかえりをしていて,ああそうだったと思うことがある。

 今回,「たぬきの糸車」を教材にしながら,読解の基礎ということと学習用語について提示した。
 学習用語については,むろん野口芳宏先生の影響が大きいのだが,実は先生が大きくそのことを言い出す前,先生のお名前を知った頃(二十数年前ということか)に,自分が「用語」にこだわっていたことを,ふと思い出した。

 それは勤務三校目に移った年だったろう。当時は年間指導計画づくりが流行?していて,どの学校でも何かしら作っていたような気がする。
 その学校でも,国語と算数で作る計画があり,その形式,項目立てについて話し合ったとき,算数はすんなりと「用語」という欄が決まったのだが,国語ではどうかというとき,かなりその点にこだわった,つまり国語も同じように入れるべき,指導事項としてピックアップするべきだと喋った記憶がある。

 国語も算数のように教えたい…そんな単純な思いは,自分の中に新任の頃からあったように思う。
 そして,今そのことの踏まえて,自分が提示したことや職員の反応をみるとき,一つの思いつきが浮かぶ。
 
 おそらく一番教えにくい?だろう文学教材の読解,鑑賞について,「書いていることから書いていないことまで合理的に推理すること」を,指導法として定着させたければ,やはり「手引き」か「問題シート」の形にすることが明確だろう,ということだ。

 あくまで基礎的な段階である。また「授業づくり」という視点では他の要素も大きく関わるので単純にはいかない。
 しかし教科書改善も進んでいる今,それに見合う,がっちりしたサポート教材の必要性は高まっているように思う。
 
 もう既に教材社がいろいろ出していて,自分のアンテナが低いだけなのかもしれないが…。

土壌の見きわめということ

2012年07月05日 | 読書
 悪い土壌に上からデザインの種をまいても,社会的に問題のあるデザインがどんどん芽を出してしまう。ということは,よいデザインが生まれる土壌を作らないとよいデザインは生まれないということ。
 ~ナガオカケンメイ 『自遊人』2012.8 インタビューより~

 無農薬野菜栽培を始めた父親の話から考えついたことらしい。
 とても納得できる。

 私たちの仕事も,勤務校のある地域という土壌の見きわめが大事だ。
 しかし,たかが数年で土壌改善など無理なわけで,そうすればその土壌にあった,性質を生かした種が求められるのではないか。

 種自体の品種改良は,いわば教育手法のあくなき改善。
 そこに育たないものを無理やり実らせようとするのは,無謀とさえいっていい。

つらい照明係

2012年07月03日 | 読書
 幻冬舎もこんな感じの本を出すんだなあと思って、手にしてみた。

 『学ぶ理由 学ばせる理由』(井沢 隆  幻冬舎)

 著者は、「こうゆうかん」という全国的な塾の経営者。
 自分の小中高時代のエピソードを織り込みながら、塾教師としての三十五年のキャリアをもとに展開した教育論といっていいだろう。

 「受験産業」と一括りすることもできるのだろうが、様々なメディアに登場する塾の経営者の言葉などを聞いたりすると、その熱意に感心することもある。
 この著者の主張に取り立てた特異性があるとは思わなかった。しかしある意味の「教育熱」は強く感じられたのも確かだ。

 さて、こんな表現があり、考えさせられた。

 昨今の教育現場では、勉強が苦手な子をひとりひとりケアして、ボトムアップ式にだんだんと全体のレベルをあげていくという発想がされることが多いようです。

 必ずしもそうとは言えない気もするが、少なくとも私の周囲ではあてはまる部分がより強いだろうと判断できる。

 そして、この文章はこんなふうに続く。

 しかし「こうゆうかん」の教師はリーダーシップをとります。

 このリーダーシップとは、姿としてこんなふうに書かれてある。

 私たち教師は遅れた子を背負って、なおかつトップを走らなければなりません。

 塾という組織で、具体的にどういう指導がされるのか詳細はわからない。
 「ひとりひとり能力にあわせて相対的に高いレベルを求めます」という表現は、私たち学校に勤める教員も同じ思いだが、きっと寄り添い方に違いが生じてくるのだと思う。

 受け止める子にすれば、伴走者であれ、先導者であれ、きっと深く感じ入るのは多くの声かけをしてくれた人であることには間違いない。

 そうすれば、今さら言うべきことでもないが、そこには目的・目標の明確さという道を照らす光量こそが大きな条件となるだろう。そこに塾との違いを見る。

 できるだけ遠くを照らそうとすると光は届かないし、身近だけ照らしていてもこの先何が待ち受けるのか不安な気持ちに揺さぶられるし、ちょっと照明係はつらくなってきたよう・・・・そんな学校という舞台がある。