すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

不敬記念日のつれづれ

2013年06月12日 | 雑記帳
 不敬記念日(笑)。「不敬」はもちろん知っていたし、見聞きもしていたが、自分で文章として書いたのはなんと初めてではなかったか。上下関係が希薄になり、日常的には威厳や尊敬の念などと縁遠くなっている。そんな世の中だけれど、地域にある神社などは大切にしなくちゃならないよ、と使ってみたのです。



 校門前の街頭指導は、信号のある交差点が目の前にある。今朝は風が強く、集団登校の列にいた一年生の帽子をとばした。交差点中央にころがる黄色い帽子。信号は青で一台の軽乗用車が進んできたが、ブレーキを踏んで停まってくれた。子どもの飛び出しもなく、帽子も無事。何気ない一コマが目に焼きついてしまう。



 午前8時過ぎに職員室に入ると、もう温度計は30度を超している。いったいどうなっているのか。ちょっと早すぎる真夏日である。ある二年生の子と登校しながら会話していると、「もう夏なの?」と問う。「そう、もう6月だからね」と一年の三ヶ月毎の季節区分を話したが、味わいたいのは初夏気分なんだよね。



 今日は5校時限。部活動もないので各教室に「居残り組」がいる。宿題忘れなどの子が残されているらしい。ある教室で、漢字の書き取りをしている子は「飛」の練習だった。最高級難度筆順の漢字。声をかけると周りの子も集まり、ひとしきりのいい学習となった。なんとも平和な時間。こんな放課後が少なすぎる。

言葉とのつきあい方を問題にすればいいってものじゃない

2013年06月11日 | 読書
 仕事の現場って面白いですよね。その職場だけに通用する規律や独特のルールがあって。私生活では積極的に人と会うほうではありませんが、仕事で人の話を伺うのはぜんぜん苦にならないです。(小川洋子)

 ただ、仕事だから演った。そして仕事は全力でやるのが当たり前だと考えていた。
 高峰は「根性」とか「頑張る」という言葉が好きではなかった。
 たとえ全身全霊を傾けて仕事に臨んでいても、周囲には毛ほどもそれを感じさせない人だった。(斎藤明美)


 新潮社の『波』今月号から引用した。
 物理用語としての仕事を抜きにすれば、仕事という語の意味は単純に「職務」「職業」というところが妥当だけれど、どうもそれ以上に広がりを持っている言葉のように思えてくる。上の引用文でもそうではないか。

 『波』の愛読している連載「とかなんとか言語学」で、橋秀実が今回は「仕事」について考えることから書き始めている。
 ある対談で、「橋さんにとって、『仕事』とは何ですか?」と問われたという。
 それに対して著者はこう書く。

 大体、他の言い方があるなら「仕事」とは呼ばないわけで、仕事は仕事だから「仕事」と呼ぶのである。

 という途方もない言い方で退けようとするが、ここから橋流の独特の追究が始まるから面白い。

 まず初めに、かのP・F・ドラッガーの文章を引用する。

 仕事とは、一般的かつ客観的な存在である。

 「えっ、存在」ということから、訳語に手を伸ばし、結局「存在とは何か」という哲学筋の話題に移ってしまい、結構こんがらってくる展開だった。
 (和辻哲郎の「存在」に込めた意味は、なあるほどと思った)

 最後に、著者はこう結論づける。

 仕事とは何か?
 下手に考えず、「仕事」という漢語はそのまま「仕える事」と読み下せばよいのではないだろうか。


 ここで「仕える」という言葉の対象が気になってくるわけだが、正直あれこれ考えても深めることは無理なような気がする。
 ただ、冒頭、引用した二つの文章から感じるのは、「仕事」は自己を規制するものだが、それを受けとめる意識のあり方は様々であることだ。

 「橋さんにとって、『仕事』とは何ですか?」と問われ、その言葉の意味を探って調査し、論理を展開しているが、この手の質問の意図は一般的にはそうではない。

 結局、その言葉(のもの)とのつきあい方を問題にしているのである。それしか問題にしていないと言ってもいい。
 すべてそうだと言い切ってもいい。

 だけど、それじゃつまらないともう一方で騒いでいる。
 こんなことを書いているのも「仕事」の一つだ、なんて思う自分の頭の構造は、いったいどうなっているのか。
 言葉の多義性というだけじゃ、済まない気がする。

この頃のキニナルキ

2013年06月10日 | 雑記帳
 「いい土地なら、誰でもやる。ここは、われわれがやって見せねば」

 城山三郎の著『人生余熱あり』に登場する半田さんが、定年退職後にマレーシアの農業指導を続けるなかで語る言葉。
 それにしてもチャレンジする心意気は、ほとんど似た言い回しになってくるようだ。

 かつて、広島カープに在籍した高橋慶彦は盗塁の名手として知られたが、数を稼ぐために必要のない盗塁はしなかったという。つまり「相手が盗塁してくるだろうと警戒している時にこそ走る」とインタビューに答えて語っていた。
 かの王貞治も、「ホームランを打たれまいと相手投手が思っているときに、ねらってホームランを打つ」と語ったという。

 好条件での仕事など何ほどのものでもない。
 悪条件における仕事こそ、何かを為し得たといえるのである。



 「肉声があってこそ、話し言葉になります。しかし、パソコンや携帯電話の書き言葉は、肉抜きで成り立っています。筆記具で文字を書くことで肉性が加わるのです」

 例の『トンボ鉛筆完全ブック』に載っていた書家の石川九楊の言葉。
 そういえば「肉筆」なんていう言葉を使わなくなったなあ。「肉声」に比べてみると、その減少スピードははるかに進行しているのではないか。

 文字の姿形に現れていた、自分の姿勢や感情はどこに消えてしまったか。
 その現実が進行している世の中で、失われていくのは想像力だろうなと単純に思う。

 「肉性」という用語の使われ方はちょっと違和感があるが、身体性のパワーを込める意味では、そういう形容もぴったりはまる気もしてくる。

書き始めると思い出すこと

2013年06月07日 | 雑記帳
 昨日の校内報は、ちょいと力が入ってしまった。前日に、年度初の指導案検討をしたので、そこでいろいろと感じたことをまとめておこうと書き始めた。題して「指導案検討から考えた授業改善」。書かれた指導案を読み合い、話し始めてみると、一人一人の語りに見えてくることがある。日常の授業づくりの姿勢だ。


 一つ目は「ねらい」に関すること。教科の指導書に載っている文言一つとっても、これが何のために必要なのか、どういう要素で形づくられている言葉か、吟味が必要であることは間違いない。その部分をないがしろにしないことだ。そうすれば自ずと骨格はきまってくるし、一時間のねらいも絞り込まれてくるはず…。


 二つ目は「教材提示のし方」。国語の場合は教材が文章であるため、どうしても教科書に頼る。それが自然で一般的だろう。ただその提示の仕方一つ変えるだけで喰いつきもよくなるし、また効率性に大きな違いがでる。指導者のねらいと学習者の実態のすり合わせは、その提示の仕方に表れるといったら言い過ぎか。


 最後は「全員参加の手立て」。特に今回は一年生が対象であるため、そのことを痛切に感じた。日常の教材研究、指導法研究はそれに対応するものを求めていることが多い。また、活動の変化や形態の変化だけで取り結ぶということが難しくなっている現実がある。では次の手は…内容の変化を入れる、ユニット型か。


 前に書いているのかもしれないが、授業を「パーツ」で意識した鮮烈な記憶がある。もう二十数年前だ。それは当時の特殊学級における1対1の学習活動だった。若い女教師は、ほぼ3分ごとに活動や内容が変化させていた。その連続で45分を構成したことに、当時の自分は衝撃的をうけた。やはりそこは省けない。

菜根譚のエキスを少し

2013年06月06日 | 読書
 『菜根譚』を読んだ。
 といっても、そのものではなく以前放送されたNHK「心の探究」というラジオ番組のテキストである。
 講師は鎌田茂雄という東大の名誉教授で、この音源を時々車の中で聴いている。

 見逃したり、聞き逃したりすることが常の自分なので、テキストと音源の双方で接しているのは、案外向きなのかもしれない。
 いわゆる人生の処世術的な語録ということだが、なかなか悟りに達しない(またサトリ世代とかけ離れている)身なれば、せめて繰り返し見聞きすることで、僅かばかりの恵みに与りたい。

 『菜根譚』は、鎌田氏が語るように、いつでも、どこからでも、どんな年代の時でも、読めばそれなりの解釈が得られるようなものである。こんなふうに書いている箇所がある。

 むしろ題は皆さんが自分でつければよいのです。

 一つを読み、それに題づけができれば、きっとそれはある程度消化されたと考えてよいのだろう。また、すらりと口をついて出るようになれば、処世訓として「いつか」役立つのかもしれない。
 では、一応読み終えて、すらりと出せる言葉はあるか。

 貪らざるを以て宝となす

 心体光明ならば、暗室の中にも晴天有り

 濃夭(のうよう)は淡久なるに及ばず、早秀(そうしゅう)は晩成するに如かざることや。


 この程度か。
 それ以上に、菜根譚の言葉に類する、似たものとして様々に取り上げられているものが印象深い。
 いくつか書き留めておく。


 何事もなきを宝に年の暮れ(俳句・作者不詳)

 苦しみを転じて楽しみとなす観自在(山岡鉄舟)

 利行(りぎょう)は一法なり。普く自侘(じた)を利するなり(道元)


 『菜根譚』という表題は、「菜根」が「野菜の根」、「譚」が物語という意から、野菜の根をかんだことがあるような人が説いた人生の教えからきている。
 野菜の根ではスープをとるのが関の山の自分たちであっても、歴史を生き抜いてきた言葉の持つエキスを、心の隅にキープしていきたいと殊勝なことを考えている。

 この本全体への題づけは難しいが、伸ばし形づくるべきは、葉や花ではなく根であると、齢相応な感じ方をしてはいる。

鉛筆つながりであれこれ

2013年06月05日 | 雑記帳
 http://www.tombow.com/100th/mook.php
 行きつけの本屋で見つけた『トンボ鉛筆 完全ブック』。昭和30年代生まれの心をくすぐった。MONOと三菱のUNIは鉛筆の双璧だったことを思い出す。高価だったし高校生ぐらいの時から馴染んだ。それにしてもこの頃,毛筆,万年筆,鉛筆に気が向いてしまう。これはきっと「一具多用」を求めているのかな。
 

 鉛筆といえば,今日ある学年の自己評価カードを見せてもらった。数字や記号でなく,達成度を鉛筆で塗りつぶす形にしたらと自分が提案したので,どうかなと覗いてみた。自己評価は子供の性格がもろにでるが,それは評価の高低だけでなく,塗り方そのものにも顕れる。強い,薄い,細かい線,だらりとした線…


 鉛筆のHとかBとかが何を表すのか,今まで考えたことがなかった。俺だけか。Bはブラックだという。なるほど。Hは…ハード。確かに固い。そうすれば一番愛用したHBは,ハードでブラックか。なんだか格好いいなあ。そういえばFというのもあった。HとBの間だ。Firm…引き締まったである。もう凄い。


 保育園卒園式での挨拶の小道具として,二度鉛筆を使った時がある。「鉛筆が君たちを待っている」という言い方で。鉛筆はある意味で「学校の象徴」だ。文字を書いて伝える。このシンプルな力の育成が学校の役割の芯であることを忘れてはいけない。ちなみにトンボは日本を象徴する虫といういわれがあるそうだ。

自分で決めることを迫る本

2013年06月04日 | 読書
 昨夜のNHKクローズアップ現代という番組で、東大野球部の指導をしている桑田真澄氏が取り上げられていた。

 ちょうど、この新書を読んでいた偶然にちょっと驚いた。

 『古武術に学ぶ身体操法』(甲野善紀 岩波アクティブ新書)

 巨人に在籍していた当時、桑田投手がケガからの復帰し、その後投法を変えたきっかけを作ったのが甲野氏であることを知る人は多いだろう。

 この本はそのエピソードから始まり、様々なスポーツや身体の動きに応用できる古武術の本質や可能性について述べている。

 甲野氏の書かれた文庫、対談本などいくつか読んでいるが、いつも奥深いものだなあという感想の域をなかなか越えられなかった。

 しかし、この新書は甲野氏の辿った道がわかりやすく示されながら、簡明な言葉でその精神が語られていて、自分の暮らしを考えるうえでのヒントを得た気がしている。

 いみじくも、桑田氏がテレビ番組で一番語りたかっただろう、この一言である。

 「自分で決める」

 この、どうしようもないほど単純さを持つ言葉には、多くの背景がある。

 例えば、「動き」をよく見ているか。「動きの質」について考えているか。
 あるいは、社会の「問題点」に気づいているか。「運命」についてしっかり向き合って考えているか。

 野球という運動の上達や練習に関しても、「自分で決める」ことを徹底するとすれば、それは本当に難しい気がする。いくつもの困難がある。
 この本に登場する、甲野氏と親交のある方々にしても、中途半端な構えではなく、まさにいばらの道を進む指導者、アスリートたちであることは確かであり、そのこともしっかり記されている。

 第四章「発想を育てる」は、刺激的である。
 視点を拡げる、見方を変えるという意味を表面的にしか理解できていないのではないかと思わされる。
 特に『極北のインディアン』という本によって紹介されている「学ぶ」「練習する」という概念のない人々の言葉には驚く。
 そしてそれが、著者の言わんとするところに通ずることが呑み込める。

 ありきたりの言葉でしか答えられない「学び」や「練習」では、自分がつくり上げられるのか、という根源的な問いであろう。

 この著には、まだまだ多くのキーワードがある。

 「おわりに」で強調されたのは「美意識」だ。
 個人的な好みを見つめ直すことによって、自分自身が何に根ざしているのか探る…これならできるかもしれない。

かるうく読んで,かるうくメモ

2013年06月03日 | 読書
 『「また,必ず会おう」と誰もが言った。』(喜多川泰 サンマーク出版)

 物語とはなっているが,小説とは言い難い。なぜなら悪人が登場しないから…なんて,至極単純な理由づけをしてみた。主人公の出会いが全て善人であるのは,いかにもサンマーク出版?らしい。穿った見方をしている自分もいるが,そういうふうに世界は出来ていると信ずることもまた,大きな才能なのだと思った。


 『天才は10歳までにつくられる』(横峯吉文 ゴルフダイジェスト社)

 数年前にテレビなどで取り上げられたことを思い出す。興味が惹かれたのは「ヨコミネ式95音」という文字学習。漢数字の「一」から始めるのはある意味論理に適っているかもしれない。読みとの関連は書かれていないが,検討するに値する。また薩摩の「郷中教育」の思想もなるほどだった。考えさせられる。


 『おれはやらない お前もやるな』(あゆかわのぼる イズミヤ出版)

 著者は,見方によっては我が県の一言居士のような存在でもあろうが,建設的な意見も少なくない。つい先日,遠足の引率でこの方の出演した公開生放送を見たばかりだ。地元を拠点にして発信し続けていることに敬意を表する。しかし同時に「地元文化人」ならではの「活動」は沈滞化しているのではないだろうか。


 『心に愛 唇に毒』(内館牧子 秋田魁新報社)

 地元紙に月2回連載しているエッセーの文庫化。震災前までの凡そ4年分で,大方は「地盤沈下」の著しい本県への叱咤,注文,激励などである。有名作家ともあって影響力は大きい。愛情も感じる。全体を通して本県の活性化した状態とはいかなる姿かを考えさせられる。読者は当事者性を持ち得ることができるか。

読み書きから動きへ

2013年06月02日 | 雑記帳
 【読み】
 http://homepage3.nifty.com/spring21/hondana.html

 冊数は十数冊だったが、印象深い書籍に出会った月だった。
 雑な読み方は相変わらずだが、この頃いつも頭を過ぎるのは、本質は何かという問いだ。

 何のためにという目的論よりも、もっと深いところで著者たちの「生き方」そのものを規定しているのは何だろう…そんな問いが湧いてくることが多いか。

 だから、読書なんてしている場合か!と思うことも時折あるのだが、やっぱり活字あるいは映像中毒者の哀れさからか、ぼやあっと、そちらへ顔を向けてしまうのである。

 自分に一番合っているのは「読書亡羊」ということかと自嘲してしまうのである。


 【書き】
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP149.html

 新年度、勇んで校内報「縷述」を再開したが4月は3回で、ちょっと腰砕けだった。5月はなんとか5号発行できたので、嬉しい。

 研究・研修を側面からバックアップすること。日常の教育活動の意味づけなどを記して意識化かること。文字にするとこういうねらいと言えるが、まあ勝手気ままに書かせてもらっている。

 あまり散漫にならないように、そして裏面に資料をコピーすることで、多少は価値あるものに、なってくれているかもしれない。

 面談や会議、授業を見ての話し合いなどの折に、話をする自分のバックボーンはここだということを常に示しておくことは、相互理解(といっても自分を理解してもらう方が強い)を多少は深めてくれることだろう。


 【動き】
 今月の大きな収穫、前進は、8月2日の国語教育研修会の講師決定である。
 北海道の堀裕嗣先生と隣県岩手の照井孝司先生をお招きして、「授業力をみがく」と題して、たっぷり語ってもらう予定である。
 タイプの異なるお二方を招いての会は、間違いなく刺激的であろう。もう少し経ったら、正式な案内が出せると思う。