すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

未練のピックアップ②

2017年06月18日 | 読書
 中高生の自殺に絡んで「いじめ」の問題がピックアップされるときに、よく「識者の声」などが載る時がある。
 その一文が悩んでいる誰かの心に届けばいいなあと思う。
 しかしまた、分析や責任追及に終始して何のための文章かと感じたりすることも多い。
 それは掲載媒体の依頼には応えているかもしれないが、きっと目的に正対していない。



Volume55
 「以前、いじめについて話してくれと言われたときに言いました。大人へなんか何も言いたくない、子供に言いたい。君たちが見ている大人に、君たちもなるんだと。そのことをどう思うかって聞きたい。どういう大人になりたいか早いうちに決めておいたほうがいい。」

 これは「決意」を迫る言葉だ。

 中途半端な優しさや厳しさとはかけ離れている。子供が自分の心を真剣に見つめる向きについて問いかけている。

 それはむろん「大人」に対しても突きつけられている。


 変わらない「私」も、ひと所に留まらない「私」も、認めながら悪あがきしながら、それでも自分から目を離さない…そんな意志の感じられる言葉だ。
 徹底して身体を扱う仕事をしているからだろうか。
 もはや俳優として名高くなっているが、舞踊家田中泯の言葉。

 一度は生で見てみたい一人だ。

未練のピックアップ①

2017年06月16日 | 読書
 最終号を何度も読み直している…季刊誌『考える人』が誌面と定価を刷新したのが去年の春。一年が経過し結果的に休刊となった。実売数や定期購読者数も増えたが、やはり雑誌の維持というのは難しいだろう。Web版は継続しているがあまり訪問していない。紙印刷への愛着が捨てきれない、未練のピックアップだ。



Volume54
 「生まれる家はみんな平等というわけにはいかないけれど、公教育を終えたときに生き抜いていけるだけの何かが身についていることが保障されるのはとても大事なこと。それは何かというと、少なくとも教科書が読めてわかることだと思うのです。」


 人工知能について数学者の立場から研究をしている新井紀子国立情報学研究所教授の言葉。
 
 学校教育に携わる者ならば、半ば常識的な考えではあると思うが、現状はどうか。

 新井氏は、ある調査をもとに「中学生の半数以上が教科書を読んでも意味を理解していないことがわかった」と例示している。

 AI研究者の先端を行く人の、そのことに対して抱く危機感が、民主主義が長く続くために一番必要なことは「多くの人がきちんと言葉の意味がわかること」だと何度も繰り返させている。

 義務教育に携わる関係者と学校現場にある者は、時々こういう言葉を噛み締めて実践を振りかえるべきだ。
 
 「時代の流れ」に沿うことがいったい何を目指しているのか。
 人を教え育てることの優先事項は何かを、常に見定めていなければならない。

青い花、青イ花、藍の華

2017年06月15日 | 雑記帳
 いつの間にか、「青い花」が増えているような気がする。



 そもそも自分が気づいていなかっただけで、以前からあったのだと言われれば、そうなのかなあと思うしかない、非常に感覚的なことなのだが…

 紫系の色も含めて、昔はこんなにあったのだろうか。ラベンダーなどのブーム?もあったかもしれないし、花が観賞用、贈答用として広まり、品種改良が進んだとも言えるだろう。



 とにかく、植物園のようなところにも、目を凝らせば道端にも…目立つようになった。
 そちらに自然と目がいくのかもしれない。最近の自分の心理的傾向なのか…。


 さて、そういえば草野心平の書いた「青イ花」という詩があった。
 中学校の教科書にも載っていたはずだ。


    青イ花
            草野 心平

 トテモキレイナ花。
 イッパイデス。
 イイニオイ。イッパイ。
 オモイクライ。
 オ母サン。
 ボク。
 カエリマセン。
 ヌマノ水口ノ。
 アスコノオモダカノネモトカラ。
 ボク。トンダラ。
 ヘビノ眼ヒカッタ。
 ボクソレカラ。
 ワスレチャッタ。
 オ母サン。
 サヨナラ。
 大キナ青イ花モエテマス。




 この詩は、結構怖い。「蛙」の詩人である草野が、蛇との遭遇とその結末を描き、象徴的に「青イ花」が使われる。

 ちょっと暗い気持ちにもなるので、お口直しに…。



 藍染の作業を見学できたので、その時に店内で見かけた作品を撮った写真。

 もっとも、藍の花は青くはないんですがね。

しみじみとアカシア天ぷら

2017年06月14日 | 雑記帳
 国道107号線を車で走っていたら、道沿いに咲く藤の花はもう終わり、アカシアの花がずいぶんと目立つようになった。



 先夜『酒場放浪記』を見ていたら「アカシアの天ぷら」が出されていたなあ、などと口にしたら、連れ合いが恩師であるO先生からもその食べ方を教えていただいたことがあるという。

 それじゃあと車を路肩に停め、至るところにあるアカシアの木から、ほんの少し収穫させていただき、夕餉の食卓へ。

 こんな感じでした。



 食べた経験のある方もいるだろうが、ほとんど癖がない。



 若い芽の方は甘味を感ずる。
 これは、ニセアカシアがハチミツの主流の一つであることからも想像できる。

 いやあ、食べるということだけに限っても、世の中には知らないモノ、未体験ゾーンがまだまだある。
 改めてチャレンジスピリットが(何の?)刺激される。

 ちなみに、アカシアの後ろに見える黒っぽいのは「赤紫蘇」。
 これも普通の紫蘇同様に食べられる。ちょっと変わった食感がする。


 退職なされ早い時期に亡くなったO先生は、理科が専門であったからずいぶんと知っていただろう。
 そんな話で一献したかったなあ。

 O先生、アカシアの季節になりました。

 あの人懐っこい笑顔を思い出しながら、しみじみと天ぷらを食べた。

表紙の色彩に獲りこまれる

2017年06月13日 | 読書
 小説を読んでいて思わず惹きこまれることは珍しくないけれど、読んでいくうちに自分の心がなんだかある色に染まっていくように意識しまうことがある。もちろん、読む中身で決まるわけだが、意外と本の表紙色に左右されることもあるのかもしれない。そう考えると、最近読んだこの2冊は典型的なのかもしれない。



2017読了64
 『ポイズンドーター・ホーリーマザー』(湊かなえ 光文社)

 『山女日記』や『物語の終わり』『望郷』など、ミステリ色の薄れた作品が多くなった気がしていたが、この作品は、湊かなえ全開!という感じがするいわゆる「イヤミス」だ。似ている感じの六つの短編が並ぶ。近い時期に『母性』という著も刊行されていて、改めて母娘関係を大きなテーマとして背負う人だと思う。


 視点人物を変えながら章立てする技法は、湊に限らず最近よく使われている。それは「人はすれ違うものだ」という前提をもと組み立てられるわけだが、どこで接点を見出すか(もしくは分裂するか)が、「事件」を呼び込む。小説家という人種?は、その作業を止めないからこそ出来るのだと思う。凡人は辛くなる。


2017読了65
 『ラン』(森絵都 理論社)

 ファンタジーなのだろうが、現実にあるどうしようもない重さを表した物語だ。読者が心底から納得してしまうフレーズも満載だ。例えば「スイッチの位置って、本当に人それぞれだよね。すぐに手に届くところにスイッチを持って生まれた人間と、うんと背伸びをしなきゃ届かないところに持って生まれた人間がいて…


 この話にも母娘の確執を抱える人物が登場する。その黒く鬱々とした心とどんな環境を絡ませるかが、作家の発想力だし、展開は人間の見方そのものに結びつく。その意味では湊とは対照的だなあ。文中にある「美化する余地のない冷酷な、そして強烈な『生』」の表現も、人間の見方が変わればベクトルも違うだろう。

いつかのキラリが輝けば

2017年06月12日 | 雑記帳
 「小町まつり」には縁がなく、今まで一度も行ったことがなかった。

 しかし、今年のパンフに載ったわらび座ミュージカル「小野小町」のキャストに目が留まった。
 見覚えのある懐かしい名前があり、これは観に行かなければと足を運んだ。


 雨は降らなかったが、やや肌寒い感じのするお天気。
 12時ちょうどからの上演を待つ、多くの観客が集まっていた。

 野外でもあるし、他の催しとの兼ね合いもあったのか1時間弱のショートバージョン。
 しかし、わらび座らしい持ち味のあるステージだと思った。
 室内であれば、照明等の工夫でもっと完成度は高くなるだろうが、それはともかく「小町の郷」を謳うこの地で行うパフォーマンスはまた格別に響く気がした。





 さて、お目当のその娘も舞台上で存分に躍動していた。
 年齢からすると、まだ入団して2年目ぐらいではないかと思う。
 小学生の頃は少しやんちゃなイメージはあるが、それが舞台上で見事に昇華されているような気がして嬉しかった。

 そういえば、この子と一緒にいた山間部の小さな小学校で、学習発表会の中に「ひとりひとりのキラリ」と題して、個人発表を取り入れたことがあった。
 これは自分が提案した教育活動の中でも、非常に充実感の残っている実践だ。

 彼女はきっと表現することの良さ、素晴らしさの実感をそれまでの生活で積み重ねてきたからこそ、今この場でステージに立っているのだと思う。
 もしかしたら小学校時代の一コマであっても、ほんの数ミリ程度は役立っているのかもしれない。
 そんなことを想うと心が少し暖かくなる。


 その頃、日刊で続けていた学校ブログのデータを探してみたら、なんと、最終更新日の写真がその子(修了式での発表)であった。当時入っていた吹奏楽部の練習風景とともに再掲する。




 晴れ姿をできるだけ近くで観たいと思い、舞台前に敷かれたブルーシートに座ったら、たまたま彼女のご家族と隣り合わせた。

 大きな拍手で終了し、隣のご家族によかったねと声をかけた。

 お父さんの目は、真っ赤に潤んでいた。

忘れないで月を眺める

2017年06月11日 | 読書
 4月中旬に放送され録画してあった「クローズアップ現代」を今頃になって観た。内容は坂本龍一へのインタビュー。
 この音楽界の巨人が今、何を考え、どう作っているかが垣間見られた。
 取り上げた言葉の意味の深さを想う。

Volume53
 「一つのテンポにみなが合わせるのでなく、それぞれの音/パートが固有のテンポをもつ音楽を作ること」

 今回のアルバムタイトルは「async」。
 「非同期、同期しない」という訳になるだろうか。

 シンクロしない音楽というのは、突き詰めてみればあり得ない気もするが、どの階層で作りあげていくべきか、ということだと思う。
 放送で流れた曲(の一部)は、どこか環境音楽のようにも響いていた。
 しっかり向き合って耳を澄ませれば、また違う感覚が生まれるかもしれない。



 それにしても、「同期しない」とは象徴的である。
 ネット化があっという間に進行して、知らず知らずのうちに同期させられている世の中になっていることを驚いているのは私だけではないだろう。

 注意深く暮らすことが求められる。
 それはまた自分のテンポをしっかり維持し、安易に合わせていいかどうかは慎重に見きわめたい。

 放送後半で「fullmoon」という曲の中に入る語りが印象的だ。

 「あと何回満月を眺めるか。せいぜい20回」

 ただこの言葉は、老境に入ったという諦めではなく、生きることへの気づきを促す言葉だ。

 キャスターがその心境を問うたことに対して、坂本はこう問い返すのだ。

 「満月を、20回も見ます?」

 忘れないで月を眺めることも、自分の大事なテンポになるだろう。

踊るお菓子のヒミツ

2017年06月10日 | 雑記帳
 知り合いの方から、お菓子をいただいた。
 初めて見る、名前も初めて聞くモノである。
 が、あの「じゃがポックル」系だなと、すぐにわかった。



 ほおうっ、これはこれは。

 なんと、じゃがポックルの製造過程で出る小さな部分を利用したものらしい。
 さらに、四つのパウダーについていて、自分で「混ぜ混ぜ」しながら(シャカシャカふると書いている)完成させるようである。

 パウダーは全部で四つ。
 「ほたてしお味」「焼きとうきび味」
 「スープカレー味」「黒みつきなこ味」

 四つ目が少し不気味だが…これは楽しめそうじゃないですか!

 おやつというより、ビール党の我が家であれば夕餉の食卓がお似合いだろう。

 ということで、ビールを注ぎつつ
 「じゃがリムセ」を開封、焼きとうきび味のパウダーを入れてシャカシャカ
 こんな感じです。



 いいですねえ。
 黒みつも甘さは感じるけれど、それなりに塩味とマッチして手が進む。

 食べながら、このお菓子は、たべびとの考える「商品開発要素」を備えているなあとつくづく思った。

 一つは「始末」
 人気商品「じゃがポックル」の切れ端部分を使っているということ。

 次に「比較・選択」
 四つの味が楽しめる。食べ比べも分け合いも可能であること。

 そして「参加」
 パウダーを開けて袋に入れて、自分の手で完成させる手間を取り入れたこと。

 なかなか優れもののこのお菓子。
 検索をかけたら、北海道で期間限定発売ものらしい。
 通販では無理のようである。

 この「レア感」もたまらなく、一層美味しく感じる。

 ちなみに、「リムセ」とはアイヌ語で「踊る」意味と書いてあった。
 まあ、踊りだすほどの…とまではいきませんが、シャカシャカ楽しいことは確かです。

いつの間にか貧弱になり

2017年06月09日 | 教育ノート
 地元紙の「月曜論壇」というコーナーで、今週は小松守大森山動物園長が「子どもの成長と動物体験」と題して書かれていた。誰しも総論では有益だと言うだろうが、現実は小松園長も書くように、現状は「衛生観念の変化などもあってか学校からも飼育動物が消え、動物体験を通じた教育機能が貧弱になりつつある



 生活科が創設された平成初期は、流れとして一時動物飼育が活発化する兆しを見せていたはずだ。公開授業を参観したこともある。総合的な学習の時間も出来たし、実践する環境は整備されつつあったのではないか。ただ実際に携わる教員の意識、意欲が高まる方向へ動いたかと言えば、現実はなかなか難しかった。


 一つには言うまでもなく「世話」に関わる大きな負担だ。それに伴った事件(職員が動物を処分した等々)もセンセーショナルに報道された。また鳥インフルエンザの発生ものしかかった。さらに、教育実践としての困難さも見えてきた。典型的なのは、本県で起きた「鶏を育てて食べる授業」の中止に関わる問題だった。


 どの事件、どの問題も深い議論に値するテーマだ。しかし学校現場はそれを受け止める環境にはない。もちろん、それ以降も全国の中には組織的また個別に実践を進めた方々もいるはずだ。ただそれが波及する気配は薄い。その一因として、国全体の学力向上への動きや総合学習の取組みの変化が挙げられるだろう。


 英語の教科化へ向けて「総合」の時間に振替可とする旨が、文科省から出されると先月報道された。予想通りであるし、判断は現場に任せられるが、おそらく右倣えとなる…そうして動物体験も含めた自然活動時間はやせ細っていく…。今、だからこそ危機意識を持ち、したたかな工夫が強く求められているのだと思う。

シンクロする雑草の皆様

2017年06月08日 | 雑記帳
 誰に言われたのか、どんな場面での話だったか、まったく覚えていないが、その言葉だけははっきり耳に残っている。

 「雑草という名前の植物はない」

 確かに総称としてごく普通に使っているが、個々の植物にとっては甚だ失礼なこと(のようである)。

 かと言って、積極的に一つ一つ覚えようとするほどの興味もない、と正直に告白しておこう。



 ただ、個人的に「雑草」という言葉は、かの大関松三郎の詩『雑草』のイメージが強く残っており、たくましさや踏まれ強さの象徴と感じていることも嘘ではない。

 自分が小学校6年生の時のちょっとしたエピソードも、そういえば「雑草」が登場していたことを思い出した。

 →「あすなろ」の時代の教育2015.1.17


 ともあれ、草の勢いを十二分に感じる季節となった。

 4月後半からの山菜採りは結構楽しませてもらったが、クマ騒動で少し気が引けるし(と言いつつ、ちゃっかり出かけているが)、それより何より、あまりにも草が伸びすぎて、また棘のある草も多く、これ以上の侵入を許さないという構えをつくっていることに感心して、こんな独り言を書いているのだが…。



 この季節、樹木に圧倒されることもあるが、見渡してみると、雑草いや「自然に生えるいろいろな草(by広辞苑)」って本当に凄い。
 こんな場所でも、堂々と背筋が伸びている。