すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

孫も爺も成長中…

2021年09月14日 | 雑記帳
 今月末で4歳になる孫は、現在「ことば」をスポンジのように吸収中。意味は分からずともどんどん真似ていく様子には驚いてしまう。ちなみに昨日は「おそるおそる」と「お見事」を連発。感覚はなんとなく掴んでいるみたいだ。60歳以上離れた爺も、今になって字句の使い方や意味を知り、それなりに成長している(笑)



 読んですぐ忘れるのだが、新聞の運勢欄はつい目が向く。3月生まれの日曜の欄には次のようなことが書かれていて、えっと思った。「とんだところに北村大膳。あと少しなのに」。ああ、「来た」と「北」をかけている語句だな。「その手は桑名の焼蛤」のような…しかし正直、聞いたことはない。時代劇の名前だろうか。


 調べると歌舞伎の一場面で使われるそうだ。それはわかったが、今の自分に何かそういう状況があったろうか。例えば、肝心なことが出来上がる一歩手前とか、例えば、何か人に見抜かれるような企みとか…ないなあ。しかしこれでインプットされた「北村大膳」。いつか言ってみたい。その前に何かを見破らないと…。


 「帰省」という語はもちろん知っているし、意味も把握していたつもりだ。しかし、改めて個々の事象がそれに該当するか、というと少し難しい。学生や都会暮らしの若者が故郷の家へ帰ることならそのままだが、では実家を離れて数十年経つ者の場合はどうだろうか。家庭状況とかその移動理由とか関係あるのか。


 公的文章の解釈がきっかけだったので悩んだ。しかし辞典を引くと意外な記述に出合う。広辞苑には「故郷に帰って、父母の安否を問うこと。故郷に帰ること」とある。別辞典でも調べたら「『省』は親の安否を問うの意」とあるではないか。つまり、実家や生家に帰ることのみでなく「慮る」行為が必要だと納得する。


妙にしみじみといくつか

2021年09月12日 | 雑記帳
◆ネットで映画の予告Vがあり、「護られなかった~~」というタイトルが目についた。字体のせいなのか、一瞬「とれなかった」と読みを勘違いしそうになる。そして「とる」だったら「獲る」だし、それは「けものへん」だよなあ、そして「護る」は「ごんべん」かと…そこにも「言葉」の役割は強くあるんだなあとしみじみ…。



◆郷土関係資料のデータ化を進めている職員から、時々漢字の「読み方」を尋ねられることがある。即答できるレベルは少ないが、今回は特に難しかった。一つは「杳めがね」。「杳」は「ヨウ」、意味として「くらい」があるが、どうもピンとこない。次は「胡積烏兎早」。これは大先輩のペンネームだったと記憶はあるが失念した。訊たくともはや鬼籍に入られたなあとしみじみ…。


◆高校の読み聞かせに持参したPCを開き、電源オンにしたら固まって動かない。昔だとよくあることだったが、このモバイルは6月に買ったばかりなのに…。大型TVに接続して絵を見せていく目論見は崩れるか…。絵本を全部持ってこなかったのでキツイなあ…と電源を二度落としたら、ようやく復旧した。デジタルに頼るのはいいが常にアナログに切り替える準備はずっと前から決めていたのに、慣れっこで守れないことが多くなったとしみじみ…。


◆ブログの編集画面に「開設日」からの日数が記されている。なんと昨日で6000日。他のプロバイダーで2年ほど続け、こちらに移行したのでブログ歴18年ぐらいか。その期間、カテゴリを特化した別サイトも作ったりしたが、今もってまともに継続できている(アップ率は70%以上だと思う)のはこれのみだ。内容の劣化(いやそもそもがそのレベルでもないか)は否めないが、長いと愛着も残るなあとしみじみ…。

ど真ん中にストレートな一冊

2021年09月11日 | 読書
 一昨日の『マイ仏教』を変化球やスローボールを使い分けて「読者」を打たせてとるタイプとすれば、この新書はまさにストレート一本で丁寧にコーナーをつくような感じだ。日本の実業界を牽引してきた稀代の読書家は、生きることの根源を探り、人間とは何かと問い続ける。経験に裏打ちされた説得力ある一冊だ。


『人間の本性』(丹羽宇一郎 幻冬舎新書)


 「人間は所詮、動物です」という諦観をもとに、いかに「動物の血」をコントロールして生きるべきかが語られる。「足るを知る」という字句はよくもち出される。そして「分相応」といったニュアンスで受け取られがちだが、著者は老子の原典から一つ高い観点を示す。「足るを知る者は富む、強めて行う者は志有り


 この前段「人を知る者は智なり。自らを知る者は明なり。人に勝つ者は力有り。自ら勝つ者は強し」を引用し、「足るを知る」ためには「己をよく知り、己に勝たなくてはいけない」と解釈する。つまり今に甘んじることを肯定するのではなくて、「自分をよく知る」ことが肝心の条件であり、そのうえで心は満たされる。


 3年前、老子の国より「帰国」した日

 この国では、もはや死語と化しているのではないか。「清く、正しく、美しく」。著者は死に体の会社をまかせられたとき最初に提案したことが、その実行だった。「きれいごと」より「きたないこと」の方がまかり通る世の中で大変なことは承知のうえで、「しかるべき行動と情熱を伴っていれば、必ず通用する」という。


 最後に「不都合な真実」への向き合い方について語る。癒着、汚職、改ざん等々、慣れきってしまった目を洗うように促される。「歴史は、不都合なことを隠す為政者などの勝者によって常に書き換えられる宿命を持っている」…この現実に対して諦めるか、抗うか。「清く、正しく、美しく」とど真ん中に直球を投げてくる。

重陽の頃のあれこれ

2021年09月10日 | 雑記帳
9月5日(日)
 先週の菅首相総裁選不出馬の話題は、ポスト菅の行方に移り連日喧しい。競馬レースと同じレベルといったらJRAに失礼か。今日は、以前勤めた学校の閉校記念誌の依頼原稿に取りかかろうかと資料を引っ張りだしてみた。もう10年近くになるか。ハードな出来事もあったが、それは書けないなあと一人苦笑いする。


9月6日(月)
 天気はいいし、孫が機嫌よくベビーカーに乗ってくれたので散歩。45分歩いてラストで騒ぎ出し、家へ駆けこむ。バトンタッチして久しぶりに隣市のブックオフへ。風呂場読書用の古本を仕入れにいく。最後に絵本コーナーで良本を見つけた。酒販店にも立ち寄り、今夏美味しかった発泡酒が残っていたので箱買する。



9月7日(火)
 自転車通勤も朝は上着が必要になってきた。今週は読書紹介文一次審査を進めていく期間だ。担当は変わらず「家読」(親子)。多くないが読書推進として意義があるだろう。パラスポーツ絡みの書籍をブログでアップ。自宅で録画した昼時の再放送ドラマが妙に面白い。隣家の御主人が逝去、お悔みも玄関口となる。


9月8日(水)
 みうらじゅんの『マイ仏教』読了。肌が合う。今日は気温が10月並みに下がったが、紹介文を読むにはいい。中学生の作品も揃ったのでその一次審査に取りかかる。明日高校での授業があり、その準備を終える。電話での問い合わせで「道路元票」なる存在を初めて知る。世の中に居る「調べる人」の多様さを想う。


9月9日(木)
 夏休み明けの最初の読み聞かせが高校になるとは予想外だったが、集中して聴いてくれたようだ。高校には今月別内容でも足を運ぶ。来週の小学校は無事にできるといいが…。家から連絡があり、ずっと壊れたままの木塀の修繕作業が入ったとのこと。今年は修理依頼が多いらしく、ようやく取りかかってもらった。

じゅん先生、参りました

2021年09月09日 | 読書
 新書の冒頭の一文は「人生で大切なことはすべて仏教が教えてくれた」。週刊誌の人気連載エッセイのいつもの書き出しは「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた」。齟齬をきたしているわけではないが、この振れ幅が著者の魅力である。誰かに倣って私も「みうらじゅん先生」と呼びたくなるような一冊だった。


『マイ仏教』(みうらじゅん 新潮新書)


 「ゆるきゃら」「マイブーム」という語を世に送り出したとして知られる著者。その事実が典型的で、本人自身がゆるきゃらであり、幼いときからマイブームを作り出してきた人である。あまりにも「独善的」な仏教への接近であっても、ここまで続けられれば、世の中に認知されていく。今、一番求められる資質である。


 それは「好きなことを見つける」というごく単純なこと。しかし、多くの人間は周囲の目を気にし、みんなと一緒の言動・習慣に馴染む道を選択してしまう。その結果生きづらさを抱え、「自分探し」などという惹句に惑わされる。著者が一貫して語る「自分なくし」こそ、心から惹かれる対象との出遭いを導くのに…。


 ちょうど3年前、某大国の寺院で

 第四章の「地獄」の解説が事細かだ。「地獄は大きく八つに分かれ、それぞれ十六の小さな地獄があり」、128個の地獄其々に罪状が決まっていると書かれると、変なワクワク感さえする。もっとも私は仏教徒ではないので当てはまらない(笑)。「後ろめたさ」を「後ろメタファー」と名づけ機能させる感覚も好きだなあ。


 今までも「比較三原則」「老いるショック」など強烈なワードを繰り出してきた著者。ここでも現世を生き延びるコツをうやうやしく述べる。今回「先生、参りました」と心に収めたのは「そこがいいんじゃない!」というフレーズだ。苦しみ、辛さを前にしてもその言葉を反射的に言えるようになれば…。光り輝く。

戦時下の庶民の覚悟を

2021年09月08日 | 読書
 祖父母や父母とは違い戦争を経験していない世代である。その自分が単純に「歴史に残る出来事と遭遇した」と強く感じたのが、このコロナだ。社会的な危機という意味で「戦争」と捉えれば、「この国」はどう戦うのか興味深いし、自ら緊張もする。そして今気分的にはいや客観的評価として「敗戦」濃厚と言えないか。


『敗戦真相記』(永野 護  バジリコ株式会社)



 著者は渋沢栄一の秘書となり、その後実業家として数々の役職に就く。帝人事件で逮捕されたが無罪、戦中・戦後と衆議院議員を務め、岸内閣での運輸大臣という経歴を持つ。弟たちもそれぞれ名の知れた実業家、政治家となっている。敗戦直後の的確な分析に、解説者は「驚くとともに、誇りを覚える」と結んでいた。


 印象的な一節は、戦争当時にアメリカの映画ニュースが東京空襲を報じたときのタイトルだ。曰く「科学無き者の最後」。非科学的な軍部のあり方については語られてきたが、これほど典型的な一言はない。そしてこの部分を読み、ふっと浮かんだのは昨年騒がれた「学術会議任命拒否」の問題。本質は同じではないか。


 施政者の科学に対する姿勢が端的に示されたと言えるだろう。そしてその延長上に感染予防施策の立ち遅れがあるといっても過言ではない。一方で政権内部の輩が「縄張り意識を捨てきれない」実態も綿々と続いている。戦時中の陸軍と海軍の対立の実例は驚くほどだが、そうした心理は総裁選にも投影されている。


 「根拠のない優越意識と精神主義」が、目的さえ明確でない戦争に向かわせた。著者は根本原因を「有史以来の大人物の端境期」と記した。それに倣えば、戦後に盛り返したか諸説あるにしても、現状は酷く壊滅的だ。新しい「科学」の目を持った気力ある人材の登場、戦時下の私達にはそれを押し上げる役割がある。

敗戦した国にも花は咲いてるが…

2021年09月07日 | 読書
 「人間の業」を肯定するしないは、個人レベルの問題と、社会全体では大違いだなと、この二冊を読了し考えた。
 個人としての業は生き抜くに有効に働いても、私達の暮らす社会に巣食う「業」を簡単に肯定するのは、ある意味では罪になる。



『花は咲けども噺せども』(立川談慶  PHP文芸文庫)

 著者にはずいぶんと著作が多いようだが、初めて読んだ。本職の落語も聴いた記憶がない。
 知り合いのブログにお薦めとして載っており、興味が湧いて注文した。二つ目落語家を主人公としたハートフル小説とでも言おうか。
 立川流で修業を重ねた自分の過去を重ね合わせているようなストーリー。舞台が寄席以外のイベント会場、小児科病棟、老人ホーム、そして中学校などで、聴衆との交流を通して落語の素晴らしさを語り、また再認識していく
 やや定型的な流れもあるが、読んでいて心地よい物語だった。


『敗戦真相記』(永野 護 バジリコ株式会社)

 なんと昭和20年9月に広島で行われた講演記録がもとになった本である。
 2002年に発刊されたのだが、実は「予告されていた平成日本の没落」という副題が背表紙にある。解説を書いた田勢康弘(日経新聞社論説委員)が付けたと考えられる。
 終戦一か月後に講演で語られた内容に、田勢が書くように21世紀初頭の日本の没落の原因が見え、そしてまさしく現在の日本が重なる。いくつも挙げられるが「人材飢饉」「縄張り意識」がどんと心に残る。
 75年間変わらない、さらに酷くなっている…この国の現実を見事に突いている。
 (さらに明日書きたい)

らんどくの秋、スタート

2021年09月04日 | 読書
 「らんどく」は「乱読」なのだが、辞書ではもう一つ「濫読」という字が出てくる。どちらも「手当たり次第」の読書ということだ。「濫」は「度が過ぎる」意味合いもあるが、自分はそこまでではない。当て字にすれば「覧読」(広く見る読書)程度かな。いやいや「run読」(読み走る…?)で、読み続けているだけか。



『寒河江伝説』(半村 良 実業之日本社)

 1992年に単行本、96年にノベルズ版として発刊されている。2020年の日本が描かれている長編近未来小説」である。
 東京は大陸やアジアからの移民に溢れスラム街化している。上級国民たちは「東北自治区」で暮らし、人口流入を閉ざしているのだ。それは家畜が防衛変異に起こして「毒」と化したことがきっかけになっていた。
 小説としては文章表現にあまり興味がわかなかったが、設定自体は実に面白い。「東京」は感染の恐怖の中にある。「そんな死が待ち構える都市に東京はなりさがってしまった」。
 30年前の作家の想像は、半分当たった。


『ダーリンの進化論 わが家の仁義ある戦い』
 (高嶋ちさ子 小学館)


 知人に「面白いから」と薦められ渡された。朝4時台の寝床で久しぶりに一気読みしてしまった。
 著者のキャラクターはTVなどで見ているが、やや破天荒な発言の下地、背景が詰まっている一冊だ。母親に「障害のある姉を守るために産んだ」と言われて育ったという冒頭から惹き付けられた。
 この人や周囲の家族を概観すると「端的な生き方」という語が浮かぶ。バランスを重視する凡庸的な生き方がちっぽけに見えてくるのだ。
 母が語る「個性とは、つぶしてもつぶしても残るもの」という考えは、我が師の教育論の一つであった。個性とは甘っちょろくない。

赤ペンと黒サンダル

2021年09月03日 | 雑記帳
 1つの物を使い切った経験がいくつかあるだろうか。明確に思い出せるものとして、一本の赤いサインペンがある。20代だった。教員としての必需品だった赤ペンのインクが出なくなった時をいまだに覚えているのは、モノアマリの時代を過ごしてきた証拠の一つだろう。しかしあの瞬間の使い切った感覚は良かった。


 ずっと使い続けたサンダルがとうとう壊れた。これも長い付き合いだ。もしかしたら20年以上経っているかもしれない。本当はいけないことだが、ドライブ用にも履いた。真ん中にボッと突起している磁石が心地よい。底面がぐしゃりとなった時、ああと思った。これほど付き合うと「感謝」の気持ちが湧いてくる。



 こんなことを書き出したのは、『人新世の「資本論」』のある語が、頭に残っているからだろう。それは「価値」と「使用価値」である。資本論をかじっている人なら承知のことだろうが、「価値」とは「商品価値」を意味し、「使用価値」は「有用性」という捉え方である。資本主義は「価値」の増殖が目的なのである。


 無理矢理結びつければ、赤ペンも黒いサンダルも「使用価値」を全うした。結果、他の商品「価値」との関わりは瑣末とはいえ薄くなった。エコや清貧などとは口にしないが、見渡せばモノだけでなくコトとのつきあい方も、無駄なく一つに集中して続けていくことが、有用性につながるし、充足感も高い気がしてくる。


 「晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を『使用価値』重視のものに切り替え、無駄な『価値』の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであった」という記述があった。社会全体では難しいが、個人では膨れ上がる「価値」に惑わされず、「使用価値」を全うする習慣づけがもっと図られてよい。

「とりあえず」の先には…

2021年09月01日 | 雑記帳
 8月末日。夕食時にはNHKニュースを見るでもなく付けておくのが、高齢夫婦二人暮らしの定番になっている。長い期間、コロナコロナと続いているわけで、昨夜も夏休み中の子どもの家庭学習のことなのか、そんな内容が報じられていた。記者が子どもに「わからなかったら、どうするの?」と訊いたときだった。


「とりあえず、あきらめる」


 と淀みなく応えた。「えっ」と感じた。日本語として間違っているわけではないだろう。しかしこのニュアンスはあまり聞かない。いや自分の耳で意識したのは初めてかもしれない。「とりあえず」であれば、常套句としては「ビール」とか「片付けて」とか「落ち着こう」とか…行動を促すような場合が多い気がする。


 もちろん「とりあえず、やめよう」という制止的な言い方はある。ただ「あきらめる」が持つ否定的なニュアンスは、自分にはしっくりこないなあ。「とりあえず」とはこの場合「今のところ」という意味に置き換えられるだろう。しかし、「ほかはさしおいて。まず。なにはさておき」と言い替えると、違和感がある。



 私はそんなことを考えて一人で盛り上がっていたが、家人はごく普通のようにとらえていた。それが一般的な受け止め方なのかもしれない。そして今の時世にまさしくフィットする言い方なのだなと思い返した。今までやってきた様々な行事、活動が中止になる、制限をうける。計画したことが予定通りにいかない。


 言葉を補うと「とりあえず、今はあきらめる」。その「今」はいつまで続くのか。「あきらめる」ことで萎えていく心。「安全」と「自由」の選択において、果てしなく「安全」に傾斜していく社会…。「とりあえず」を言い訳にしながら沈んでいく世の中でいいのか。ならば「とりあえず、あきらめない」と言ってみようか。