百醜千拙草

何とかやっています

成功のわけ、日本の教育

2008-06-10 | Weblog
「時代を超える言葉」という本を借りて読みました。日経ビジネスが十年前に出した本で、いわゆるビジネス書です。私はこの手の本をほとんど全く読んだことがなかったのですが、大変興味深く読みました。これは日経ビジネスの記者が各界の著名人にインタビューして、一人見開き2ページずつ118人分をまとめたもので、この巻より前にも2冊同様の本が出ています。この本以降も数冊でているのかも知れません。この本でインタビューされている人は、人生の晩節にあって成功を実現してきた人々です。これらの人々には、共通している部分がとても多いことに私はあらためて感心しました。この本に出てくる成功を実現した人々はほとんどが、謙虚である、人や社会に奉仕する気持ちを持っている、辛酸をなめた経験をばねに頑張ってきた経験がある、困難を受け入れつつも負けない根性を持っている、そうした点で共通しているのです。私も、こうした資質を身につけて努力すれば、苦労はいつか報われると信じておりますが、一方では、こうした成功者のみから聞く話はいわば片手落ちであって、頑張ったけれども成功することなく老齢となってしまった人々も大勢いるであろうし、そうした人からの話も聞いたうえで、教訓とすべきではないかとも思います。この成功した人々に共通の謙虚さや粘り強さなどが、成功の原因であったのかまたは成功したために後から身に付いたものなのかは本当はわからないと思うのです。成功した本人が後から振り返って、こういったことが大切だと思ったので、成功の理由と考えて後付けしただけなのかも知れません。しかし、頑張ったが結果的に成功しなかった人を探してインタビューするのは、ちょっと困難かもしれません。老齢になった人が、自分の人生を失敗であったと評価することは余りないでしょうし。仮に社会的、経済的意味での成功はなかったとしても、そこまで生きてきたというだけで、人生を肯定してきたわけです。実は失敗などというものはなく、彼ら自身が定義する成功がいろいろな形であるだけなのかも知れません。しかし、多くの犠牲を払って、苦労してあきらめずに努力を続けたが、成功に至らず、時間切れとなってしまい、無念に思っているという人も少なからずいるでしょう。私としては、是非そういう人たち、成功者と同様の資質を備えて努力したのに関らず、報われなかったと考えている人々の話を聞きたいと思います。私自身、現在、客観的に見れば困難の中にいるわけですが、不思議な事に、この一寸先は闇状態の中でも、それほどの窮地であると認識はありません。むしろ、サーカスの綱渡りのように、外からみれば危ない状態でも、本人は綱から落ちないと思っている、そんな状態に近いような気がします。いくら自信があっても落ちるときは落ちるのですが、幸い落ちても命までとられるわけではありませんので落ちた時のことは心配しないでいます。
 ところで、この本の中の島津製作所の会長であった西八條實さんの「突き詰めてこそ活路が開ける」という小文の中で、日本の教育についての西八條さんの感想に同感しましたので、書きとめておきたいと思います。西八條さんは、最近の若い人で寝食を忘れて物事に取り組む姿勢が弱まっているのではないかとの心配をされています。米国などでは組織としての技術力は弱いが、とことんやる人々が多くいて、個人の力と言う点で日本は弱いのではと危惧されています。原因の一つを日本式の教育であると述べられ、自分の夢や限界を追い求めるエネルギーを摘み取り、皆が同じ方向を向く教育しか行われていない、と語られています。私の公立小学校時代を考えても確かにそうでした。振り返れば、私立の中学高校では公立の小学校の時とは随分ちがって、自由な校風だったように思います。以前、述べましたように、日本の教育の一つの目的は日本政府(自民党)の国民洗脳であると私は考えています。日本の教育が、リーダーや起業者ではなく、優秀なサラリーマンや「いいように使われる人」を均質に生産するという目的に沿ってデザインされていると思っています。この大量生産工場方式は高度成長期に国の経済力を上げるという点で極めて効率的に作動してきました。しかし、もはや高度成長期ではありません。西八條さんは、続けてこう述べておられます。「私が学生の頃、忠君愛国の教育を受け、多くの若者が特攻隊にわざわざ志願して死んで行きました。それほど教育の効果は恐ろしいものです。その効果のほどを再認識し、今後の教育は同あるべきかを真剣に考える時期に来ているように思えます」私は、これまでの日本の教育は、いわば国民を品質のよいロボットとして動けるように訓練するものであったと思います(日本に限りません)。リーダーになっていく人は、一般人とは別に「帝王学」を密かに叩き込まれるのです。この帝王学とは、如何に残りの国民を操縦して自らの利益に繋げるかというコツのことであって、別段、より優れた人間となるための学問ではありません。そういう点からみれば、日本の学校教育の崩壊というのは実は好ましいことかも知れません。ロボットが優秀でなくなれば、生産効率は落ちるかも知れませんし、それで一時的に一般国民の生活も落ちるかも知れません。しかし、長い目で見れば、民主主義とはいいながら、ずっと政府の役人や癒着企業が一般国民を操縦してきた日本の官僚主義的構造が再編成され、より成熟した社会を実現していくためのきっかけになるかも知れません。
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