和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

関東・阪神大震災。

2007-07-26 | 地震
石井英夫著「クロニクル産経抄25年」上下巻(文芸春秋・平成八年刊)。
その帯には「第40回菊池寛賞受賞」「『天声人語』を卒業した人に」とあります。
配列順は平成7年から順次年代を逆にもどってゆくのでした。
それで、最初にある産経抄はというと、1995(平成7)年1月18日のコラムでした。
「大震災発生」と題してあります。
そこから引用してみましょう。

「・・・実はこの正月、気になる新聞記事を読んでそれが心に引っ掛かっていた。1月8日付の日経新聞で、琵琶湖から大阪に至る花折・金剛断層系で大地震を起こすエネルギーがたまりつつある、という立命館大・見野和夫教授の予測である。関西のなかでも、この地域には三百年以上も目立った活動がない。西日本の人びとはそこで油断があったり、安心感を抱いたりする。しかしそうだからこそ警戒を要する。『関西は地震に対する意識が薄く、防災体制も不十分だ』という警告であった。」以下歴史をさかのぼって関西の地震の年代を記述しておりました。

その次の1月19日の産経抄は、谷崎潤一郎が登場します。
ここは読み甲斐がありますので、丁寧に、というか全文引用。

「チャキチャキの東京っ子・谷崎潤一郎は、大正12年9月の関東大震災のあと東京を逃げだし、関西に住みついた。はじめしばらく京都にいて、それから神戸へ移ったという。【関西亡命】といえるかもしれない。東京を去ったのは地震の恐怖ばかりでなく、古い風俗や習慣の【定式】が東京から失われてしまったからだった。谷崎は箱根で大震災に遭い、さいわい無事だった家族と再会し、沼津から汽車で神戸へ向かう。そのあと神戸⇔横浜を船で往き来した。関東大震災では、地震にこりごりした関東の被災者たちが大挙して関西へ引っ越したそうだ。阪神地方には地震がないという【信仰】のような口伝があったからだろう。そんな被災者を迎える関西の人びとの模様を、谷崎はエッセーでこう書いている。『梅田、三宮、神戸の駅頭には関西罹災民を迎へる市民が黒山のように雲集し、出口に列を作ってゐてわれわれの姿を見ると慰問品を配り、停車場前には接待所などが設けられており、分けても梅田駅の活況は眼ざましいものがあった・・・・。』それに続いて谷崎は、大阪と京都の違いについて次のように書く。『驚いたことに、七条ステーション前の広場は森閑として、平日と何んの異る所もない。私はそれを見て実に異様な気がしたものだった。この時ぐらゐ京都の土地柄をまざまざと見せつけられたことはなかった』。大阪や神戸というと、がめつく計算高い土地柄のように考えがちだ。しかしどうして、人情に厚く、心温かい救いの手を関東大震災の被災者に差しのべたと谷崎潤一郎は証言している。未曽有の苦難に直面した関西に、今度は関東がお返しをする番である。」


ちょうど良い機会ですから、今年2007年1月21日読売新聞に載った田辺聖子さんの「よむサラダ」を引用したくなるのでした。

はじまりは
「この原稿を書いているのは1月17日、そう、阪神大震災から12年である。昨日の16日には、町のあちこちで追悼行事が行われた。・・・私はあの夜、全くの偶然から、震災死をまぬがれた。1月10日過ぎの頃あいは、原稿の締切りが殺到するのが例年のならい、毎晩のように深夜まで仕事をし、白々(しらじら)明けのころ、就寝するはずであった。ところが前日に、わが家は法事を営み、直会(なおらい)の宴があって、一族はみな、楽しく飲み、話の花が咲き、機嫌よく散じた。私はそのあと仕事をするつもりだったが、ねむ気に勝てず寝てしまったのである。・・・」

真ん中を省いて、最後の方には
「ところが、だ。私の仕事部屋を覗いたとき、一瞬、声を奪われた。私は窓に向った低い机に、それに合う、低い椅子を置いている。正座ができないので、特別にあつらえた机と椅子を使っている。背後には、壁に接して天井まである大書棚(これは、人間にそんな大きな本棚が要るはずない、という頑固な棟梁を説得して、無理に作ってもらった特製の本棚)。もちろん、本はぎっしり詰まっていた。その本棚が・・・。――モロに机に叩きつけられ、本は散乱し椅子の背に本棚はめりこんでいた。私が予定通り徹宵(てつしょう)仕事をしていれば、頭を砕かれていただろう。それを見たとき私は、まだ生かしてもらえるのだ・・・と感謝した。何ものにとも知れず。・・・多くの死者の中へ入らず私が助かったのは、ほんの偶然なのだろう。・・・・」


コメント
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