和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一本立ちの孤独。

2008-03-02 | Weblog
三好達治著「詩を読む人のために」(岩波文庫)を読みました。
興味は後半の方にありましたので、後ろから読みはじめました。
そして、残念ながら私は前半の箇所が興味をもてませんでした。
私は同じ著者の、「諷詠十二月」(潮文庫・古本)が好みです。
けれども、「前書き」が素敵でした。そういえば、と思い浮かべるのは、
茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)の「はじめに」でした。
茨木さんはジュニア新書でご自身の詩を引用しておらず、私には茨木さんの「はじめに」が見事な詩になっているように感じられたという印象をもったことがあります。
さて、三好達治氏の「前書き」にはこうあります。
「ただ一つ私が以前からその折々に読みつづけてきたさまざまな作品の、その折々に感動あるいは感興を私に覚えしめた跡をたどりたどり、もう一度私の過去をふりかえってみるようなつもりで稿を進めました。誰かもいったように、詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人だからであります。・・・」
詩人が書くところの「前書き」。
言葉は、見えない読者へとやさしいアプローチをしております。
まるで、私には、詩に対する閉ざした心を、慎重にときほぐす、情理をかねそなえた呪文を読んでいるような気分になりました。こうもあります。
「詩は一本立ちの孤独な心で読むべきものです。私の解釈解説に多少おしつけがましいふしがまじっているとしても、それは要するに諸君の取捨にまかせるために、あるいは諸君の別箇の考えを喚(よ)び起すために、そこに置かれているのにすぎないことは、もう断るまでもありますまい。・・・」
そして、4ページほどの「前書き」は、こう締めくくられるのでした。
「さて、こういった後でいうのも何ですが、詩を理解することは、さまざまの詩をさまざまに読みとり受け容れることからまず始める必要のあることもまた事実でしょう。殊に初心の読者にはそれが必要でしょう。心を柔軟に精神を平らかにして、さまざまは詩人のさまざまな作品に虚心に従ってゆくことは何という楽しい遍歴でしょう。それが私の流儀です。私はこの流儀に諸君を限ろうとはしませんが、私はこの流儀をまず諸君に勧める者ではあります。」

私は最後にある「数人の詩人について」から、パラパラと読み始めたのでした。
丸山薫・竹中郁・田中冬二・津村信夫・立原道造・中原中也・伊東静雄・萩原朔太郎・室生犀星・堀口大学というメンバーの詩が語られているのでした。
ちょうど、私は伊東静雄に興味があったので、
伊東静雄のところでは、どの詩が引用されているのかと興味をもちました。
まず「訪問者」という詩が引用されておりました。
そこから、すこし孫引きしておきます。

   ・・・
   その少女は十九だと答へたつけ
   はじめてひとに見せるのだといふ作詩を差出す・・・
   ・・・

   いま私は畳にうづくまり
   客がおいていつたノート・ブックをあける
   鉛筆書きの沢山の詩
   ・・・・

   出されたまま触れられなかつたお茶に
   もう小さい蛾が浮かんでゐる
   生涯を詩に捧げたいと
   少女は言つたつけ
   この世での仕事の意味もまだ知らずに


うん。三好達治氏はちゃんと詩の全文を引用しておりました。
うん。私みたいに端折っての引用じゃ、詩の姿がつかめないなあ。
でも。とりあえず、不確かな引用でご勘弁ください。
つぎ。興味を持ちましたなら、ご自身でご確認をお願いします。
コメント
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