萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」(岩波文庫)を読みました。
よかった。蕪村について、どなたかの本を読みたいと思っておりましたので、
なおさらよかったのかもしれません。その序には「著者は昔から蕪村を好み、蕪村の句を愛誦(あいしょう)していた」とつづく素敵な言葉が並んでおります。
そして、本文中にもこうありました。
「俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるテニヲハと、言語の豊富な連想性とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な欠点と相殺される。それ故に詩を作る人々は、過去においても未来においても、新しい詩においても古い詩においても、必須的に先ず俳句や和歌を学び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未来の如何なる『新しい詩』においても、和歌や俳句のレトリックする規範を離れて、日本語の詩があり得るとは考えられない。」(p51)
全体に解説的なくどくどしい説明がなく。蕪村俳句のリリシズムに相対する語感で萩原朔太郎は、蕪村を読み解いてゆきます。そして時に、大胆さをさりげなく書きこんでいたりします。
たとえば、こんな箇所はどうでしょう。
「芭蕉は『漂泊の詩人』であったが、蕪村は『炉辺の詩人』であり、ほとんど生涯を家に籠って、炬燵に転寝をして暮らしていた。時に野外や近郊を歩くときでも、彼はなお目前の自然の中に、転寝の夢に見る夢を感じて・・・」(p101)
よかった。蕪村について、どなたかの本を読みたいと思っておりましたので、
なおさらよかったのかもしれません。その序には「著者は昔から蕪村を好み、蕪村の句を愛誦(あいしょう)していた」とつづく素敵な言葉が並んでおります。
そして、本文中にもこうありました。
「俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるテニヲハと、言語の豊富な連想性とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な欠点と相殺される。それ故に詩を作る人々は、過去においても未来においても、新しい詩においても古い詩においても、必須的に先ず俳句や和歌を学び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未来の如何なる『新しい詩』においても、和歌や俳句のレトリックする規範を離れて、日本語の詩があり得るとは考えられない。」(p51)
全体に解説的なくどくどしい説明がなく。蕪村俳句のリリシズムに相対する語感で萩原朔太郎は、蕪村を読み解いてゆきます。そして時に、大胆さをさりげなく書きこんでいたりします。
たとえば、こんな箇所はどうでしょう。
「芭蕉は『漂泊の詩人』であったが、蕪村は『炉辺の詩人』であり、ほとんど生涯を家に籠って、炬燵に転寝をして暮らしていた。時に野外や近郊を歩くときでも、彼はなお目前の自然の中に、転寝の夢に見る夢を感じて・・・」(p101)