和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

そつとつぶやく。

2008-03-26 | Weblog
萩原朔太郎著「郷愁の詩人与謝蕪村」(岩波文庫)を読んだら、
田中冬二著「サングラスの蕪村」(田中冬二全集第二巻)が興味深く読めました。しばらくして、「丸谷才一批評集第五巻 同時代の作家たち」(文芸春秋)にある
吉行淳之介の箇所が思い浮かんだのです。その文は一読印象深い味わいがありました。そこから、話をはじめましょう。
丸谷さんの文には注があり「吉行淳之介は1994年7月26日に亡くなった。この文章はその翌日に書かれた」とあります。題して「『暗室』とその方法」(p260)。その文の最後を丸谷さんはこう書いております。

「独創的とは言つたけれど、心に浮ぶ先行作品が一つある。『伊勢物語』である。断章が無雑作にはふり出されて、脈絡があるみたいでもあるし、ないやうでもあるあの趣は、『暗室』にどこか似ていゐる。そして吉行さんの文学に王朝の色好みに通じるものがあるといふのは、かなりの人の認めるところだろう。もつとも、影響などと言ふつもりはない。第一、『伊勢物語』など読んだことがなかろう。ここで一言、そつとつぶやくことにするが、まともな本をあんなにすこししか読まなくてしかもあんなに知的な人がゐるといふのは、わたしには信じがたい話である。」

さてっと、私は小説を読まないタイプなので、『暗室』のなんたるかを知らないわけです。ですが、それにしても丸谷さんの、この書きぶりが、鮮やかな印象として残っております。

そういえば、吉行淳之介は「田中冬二全集第三巻」の月報に書いているのでした。
こうあります。「昭和17年、田中冬二という詩人を、私は自分で見付けた。」「その詩は日本固有の風物を捉えてきて、それを珠玉の作品に定着させていた。・・・・それが土俗的でない感性で処理されているところが快かった。ただ、あの殺伐な時代に、田中冬二の詩を読むと、平和だった時代が懐しくなって心が痛むので、おもわず本を伏せたことが何度もあった。」「昭和29年に私が芥川賞を受けたときに・・友人たちが中野のモナミで受賞記念パーティを開いてくれた。私の隣りに田中冬二の席を設け、もう一方は高橋新吉であった。私は二人のはるか年上の詩人に挟まれて、小説家としてスタートした。」

田中冬二・高橋新吉・吉行淳之介という三人への補助線の結び目を、見つけるのは、難儀でも、なにやら魅力的な発見が待ち構えているような気がします。どうですか? と私は、ここまで。

最後に「『サングラスの蕪村』に関して」という田中冬二ご自身の言葉を引用しておきましょう。「私は詩を書いて来て五十余年、顧みればそれは詩を書いて来たというよりも、ロマンを追つたことのようだ。そしてそのロマンが詩をもたらしたのだ。・・・・私は老年であるが、エスプリは燃え上がる青春の日のままである。そうした一面にはまた独楽(こま)が澄みきつて廻つているような、しずかな心境を欲している。」

え~と。昭和51年(1976)。田中冬二が82歳の時に詩集「サングラスの蕪村」は刊行されておりました。


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