司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)に
「弔辞 ―― 藤澤桓夫先生を悼む」という文が載っております。
杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア)に
「大阪の詩人・作家たち ――交友の思い出から」という文があり、
その最初が藤澤桓夫を取り上げておりました。
そのなかに「藤澤さんがなくなられたときに(平成元年)、司馬遼太郎さんが弔辞を読まれました。ちょっと遅れて来て、そして長い弔辞を読まれました。」とあり、その引用を半ページほどしたあとに「その存在そのものが光であった、という文句で長い弔辞を結ばれました。ほんとうにそのとおりなんですね。・・五十年間、一度も上京したこともない。藤澤さんの小説が戦後読まれなくなったのは、作中人物がみな善人だからじゃないでしょうか。俳句がとてもお上手で、《春の星 南の枝に見つけたり》というのがあります。いかにも明るい、藤澤さんの人格をそのまま現しているような気がいたします。」
さて、この文には、杉山平一氏が藤澤さんのところへ出入りするようになった頃の座談のおもしろさを語った箇所があり、印象に残ります。
「誰それの作家は、手紙の字がだんだん小さくなりよんねん、はじめ大きい字やったんがだんだん小そうなりよる。すると、とうとう死によったとかね(笑)。それから、ある新進作家が文体をプツプツ切る、そのことを批評家にたたかれた、それでその作家は文体をあまり短く切らんように直しよった。するとその作家はだんだん輝きが消えて、ダメになっていった。つまり、作家というのは悪いクセを直したらだめなんや、それはその人の生命なんやとか。まあ、いろいろおもしろいこといわれました。書き続けろ、何でもいい毎日書き続けろといわれました。それでないと、ハガキ一枚書くのにもしんどくなってしまう。文学は習慣だってね。非常にウィットに富んで、愛想がよくて、相手をそらさないように・・大阪人ですわね。」(p205~206)
ところで、司馬さんの弔辞の方は、「以下、無用のことながら」と「司馬遼太郎が考えたこと 14」との両方にあり、共に文庫本になっておりますので、どなたでも気軽に手にして読めるのでした。この杉山氏のエピソードを読みながら、司馬さんの弔辞を読むと、読み流していて気づかなかったことに、あらためて気づかされるのでした。
「弔辞 ―― 藤澤桓夫先生を悼む」という文が載っております。
杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア)に
「大阪の詩人・作家たち ――交友の思い出から」という文があり、
その最初が藤澤桓夫を取り上げておりました。
そのなかに「藤澤さんがなくなられたときに(平成元年)、司馬遼太郎さんが弔辞を読まれました。ちょっと遅れて来て、そして長い弔辞を読まれました。」とあり、その引用を半ページほどしたあとに「その存在そのものが光であった、という文句で長い弔辞を結ばれました。ほんとうにそのとおりなんですね。・・五十年間、一度も上京したこともない。藤澤さんの小説が戦後読まれなくなったのは、作中人物がみな善人だからじゃないでしょうか。俳句がとてもお上手で、《春の星 南の枝に見つけたり》というのがあります。いかにも明るい、藤澤さんの人格をそのまま現しているような気がいたします。」
さて、この文には、杉山平一氏が藤澤さんのところへ出入りするようになった頃の座談のおもしろさを語った箇所があり、印象に残ります。
「誰それの作家は、手紙の字がだんだん小さくなりよんねん、はじめ大きい字やったんがだんだん小そうなりよる。すると、とうとう死によったとかね(笑)。それから、ある新進作家が文体をプツプツ切る、そのことを批評家にたたかれた、それでその作家は文体をあまり短く切らんように直しよった。するとその作家はだんだん輝きが消えて、ダメになっていった。つまり、作家というのは悪いクセを直したらだめなんや、それはその人の生命なんやとか。まあ、いろいろおもしろいこといわれました。書き続けろ、何でもいい毎日書き続けろといわれました。それでないと、ハガキ一枚書くのにもしんどくなってしまう。文学は習慣だってね。非常にウィットに富んで、愛想がよくて、相手をそらさないように・・大阪人ですわね。」(p205~206)
ところで、司馬さんの弔辞の方は、「以下、無用のことながら」と「司馬遼太郎が考えたこと 14」との両方にあり、共に文庫本になっておりますので、どなたでも気軽に手にして読めるのでした。この杉山氏のエピソードを読みながら、司馬さんの弔辞を読むと、読み流していて気づかなかったことに、あらためて気づかされるのでした。