窪田空穂全集の月報6(第20巻付録)に
「空穂談話Ⅵ」が掲載されておりまして、印象に残ります。
そこに「小説を書いたころ」というインタビュー記事。
記者が、ごく一般的な質問をしております。
「・・はじめは新体詩をお書きになっていて、歌から小説へといかれたわけですね」
それに、答えて空穂氏は
「いまそんなことをいうとね、なにか意識的に、変わった飛躍でもするように聞えるけれども、そのころは、広い意味の文学青年はね、なんだってみんなやったよ。だれだってね。短歌きりつくらないという者は、ひとりもなかった。短歌をつくっている者は、新体詩もつくっていれば、俳句もやってる。文章はむろん書く。そのころの文学青年、みんなそうだった。」
・ ・・・・・・・
記者「先生には、『小品』といった性格のものがだいぶおありになるんですね。
窪田「いまの随筆だよ、一種の詩的な随筆。小品文という一つのジャンルができてた。そいつを少し延長すりゃ小説になる。」
記者「この全集でも、小説・小品が二冊分もあるわけですが・・・。」
・・・・・・・・・・・
いろいろと興味深いので、全部引用したくなるのですが、あとは最後の方。
窪田「・・編集者のごきげんをとって、必ず使ってくれるということにしなくちゃ、やっていかれない。ちょうど芸人が手拭いをくばるような具合に、編集者のごきげんをとって、ひどいことになると、待合のお伴までしなくちゃいけない。おれはそれをした覚えはないけれど、みんなの話を聞くと、それが実情だったらしい。そのころでも、売れっ子というのは二、三人しかいない。あとはみんな売りっ子になる。編集者に、まずいけれど使ってもらう、それには売りっ子にならなくてはいけない。それじゃほかのことでもって飯を食おうと、考えこんじゃった。原稿売って飯を食おうというのはあきらめようと。まあまあ、小説を書き出して、またあきらめようと思ったのも、こんなことだった。」
さてっと、ここで、話はかわりますが、
ちょいっと読み終わってから、どこかにまぎれていた松岡正剛著「多読術」(ちくまプリマー新書)が、本棚を整理していたら出てきました。あらためて、パラリとひらくと、そこは全集について語っている箇所なのでした。ということで、そこを引用。
「新聞、雑誌、単行本、マンガ、楽譜集、どんなものでも全部が『読書する』なんですが、そこには優劣も貴賎も区別がないと思うべきなんですが、やっぱり読書の頂点は『全集読書』なんですよ。これは別格です。個人全集もあるし、シリーズ全集もありますね。まず、その威容に圧倒される。大半は頑丈な函入りですから、なかなか手にとる気にならない。飾ってあるだけで満足です(笑)。しかし、眺めているだけではもったいない。それを齧るんですね。ロック・クライミングですよ。当然、すぐに振り落とされる。二合目と三合目でね。それがまた、たまらない(笑)。・・・
はい、マゾですね(笑)。いや読書というのはね、そもそもがマゾヒスティックなんです。だから、『参った』とか『空振り三振』するのも、とても大事なことです。わかったふりをして読むよりも、完封されたり脱帽したりするのが、まわりまわって読書力をつけていくことになる。だいたいプロ野球の最高のバッターだって三割五分くらいの打率でしょう。まったく打てない相手もいる。読書もそういうもので、凄いピッチャーに内角低目をえぐられたら手も足もでない。・・・」(p61~)
そうそう、月報のこともでてきました。
「『月報』ですね。全集にはたいてい著者の縁が深かった関係者や研究者が、巻ごとに二、三人ずつ原稿を寄せている。それが月報ですが、ぼくはどんな芥川龍之介論よりも、芥川全集の月報を読んだときのほうが芥川のことが見えた記憶があります。・・・・
そのうち、マゾばかりでもなくなるんですよ(笑)。それは『攻める読書』というものです。いわば『攻読』。ただし冒瀆するわけじゃない。批判するわけでもない。一言でいえば、こちらの考え方をまとめていったりするための読書法です。おそらく読書には、守りの読書と攻めの読書があるんでしょう。それが『守読』と『攻読』です。」(~64)
「空穂談話Ⅵ」が掲載されておりまして、印象に残ります。
そこに「小説を書いたころ」というインタビュー記事。
記者が、ごく一般的な質問をしております。
「・・はじめは新体詩をお書きになっていて、歌から小説へといかれたわけですね」
それに、答えて空穂氏は
「いまそんなことをいうとね、なにか意識的に、変わった飛躍でもするように聞えるけれども、そのころは、広い意味の文学青年はね、なんだってみんなやったよ。だれだってね。短歌きりつくらないという者は、ひとりもなかった。短歌をつくっている者は、新体詩もつくっていれば、俳句もやってる。文章はむろん書く。そのころの文学青年、みんなそうだった。」
・ ・・・・・・・
記者「先生には、『小品』といった性格のものがだいぶおありになるんですね。
窪田「いまの随筆だよ、一種の詩的な随筆。小品文という一つのジャンルができてた。そいつを少し延長すりゃ小説になる。」
記者「この全集でも、小説・小品が二冊分もあるわけですが・・・。」
・・・・・・・・・・・
いろいろと興味深いので、全部引用したくなるのですが、あとは最後の方。
窪田「・・編集者のごきげんをとって、必ず使ってくれるということにしなくちゃ、やっていかれない。ちょうど芸人が手拭いをくばるような具合に、編集者のごきげんをとって、ひどいことになると、待合のお伴までしなくちゃいけない。おれはそれをした覚えはないけれど、みんなの話を聞くと、それが実情だったらしい。そのころでも、売れっ子というのは二、三人しかいない。あとはみんな売りっ子になる。編集者に、まずいけれど使ってもらう、それには売りっ子にならなくてはいけない。それじゃほかのことでもって飯を食おうと、考えこんじゃった。原稿売って飯を食おうというのはあきらめようと。まあまあ、小説を書き出して、またあきらめようと思ったのも、こんなことだった。」
さてっと、ここで、話はかわりますが、
ちょいっと読み終わってから、どこかにまぎれていた松岡正剛著「多読術」(ちくまプリマー新書)が、本棚を整理していたら出てきました。あらためて、パラリとひらくと、そこは全集について語っている箇所なのでした。ということで、そこを引用。
「新聞、雑誌、単行本、マンガ、楽譜集、どんなものでも全部が『読書する』なんですが、そこには優劣も貴賎も区別がないと思うべきなんですが、やっぱり読書の頂点は『全集読書』なんですよ。これは別格です。個人全集もあるし、シリーズ全集もありますね。まず、その威容に圧倒される。大半は頑丈な函入りですから、なかなか手にとる気にならない。飾ってあるだけで満足です(笑)。しかし、眺めているだけではもったいない。それを齧るんですね。ロック・クライミングですよ。当然、すぐに振り落とされる。二合目と三合目でね。それがまた、たまらない(笑)。・・・
はい、マゾですね(笑)。いや読書というのはね、そもそもがマゾヒスティックなんです。だから、『参った』とか『空振り三振』するのも、とても大事なことです。わかったふりをして読むよりも、完封されたり脱帽したりするのが、まわりまわって読書力をつけていくことになる。だいたいプロ野球の最高のバッターだって三割五分くらいの打率でしょう。まったく打てない相手もいる。読書もそういうもので、凄いピッチャーに内角低目をえぐられたら手も足もでない。・・・」(p61~)
そうそう、月報のこともでてきました。
「『月報』ですね。全集にはたいてい著者の縁が深かった関係者や研究者が、巻ごとに二、三人ずつ原稿を寄せている。それが月報ですが、ぼくはどんな芥川龍之介論よりも、芥川全集の月報を読んだときのほうが芥川のことが見えた記憶があります。・・・・
そのうち、マゾばかりでもなくなるんですよ(笑)。それは『攻める読書』というものです。いわば『攻読』。ただし冒瀆するわけじゃない。批判するわけでもない。一言でいえば、こちらの考え方をまとめていったりするための読書法です。おそらく読書には、守りの読書と攻めの読書があるんでしょう。それが『守読』と『攻読』です。」(~64)