群盲撫象(ぐんもうぶぞう)と読むのだそうです。
たまりにたまった産経新聞の古新聞を整理。
こういう時は、気になる連載とか、なんとなくとっておきたいような箇所は遠慮なく捨ててかえりみない。なんせ、古新聞の山を、とにかく処理する、処分することを第一にします。気分はイヤイヤですから、はなっから捨てることが念頭。うん。貴重なご意見をあれよあれよと迷わずに切り捨てるのは、これはこれで気持ちがよいものです。
暑くて何もしたくない時は、こういうのが案外よいかもしれませんね。
情報を片っ端から捨てていくような、振り分け人になった気分。
と、思わなければつまらないばかり。
ところで、4月13日のオピニオン「話の肖像画」は「虹を紡ぐ」と題して渡部昇一氏のインタビュー記事。「日本の歴史」を刊行中の渡部氏に伺っておりました。
そこにオーウェン・バーフィールドの言葉として
「国史というものは、その国の人たちが見る虹のようなものではないだろうか」という一節を引用しておりまして、そのあとにこうありました。
「もう一つ、比喩で支えになっているのは『群盲撫象』というお経の言葉です。昔ある王様が、大勢の目の見えない人に象をなでさせて答えさせた。牙をなでた人は角のようなものだと言い、尾をなでた人は鞭(むち)のようなものだと言い、腹をなでた人は太鼓みたいなものだと言ったという話ですね。これは全部事実なんですけれど、象とはいえない。
―――なでた人には確信があります(質問者の声)
しかし、その確信を主張すれば主張するほど、象自体からは遠ざかるということがあるんじゃないでしょうか。それよりは、象に触れたことはなくても、遠くから見て大まかなスケッチでも描けば、象の形はわかります。傍らに象使いでも描けば、象の大きさまでわかる。そういう話ならば素人の出る幕はあるし、通史も語れると思うんです。」
そうか。『群盲撫象』はお経の言葉なんだ。
というので、鈴木棠三編著「新編故事ことわざ辞典」(創拓社)をひらくと
出典からの引用があり最後に六度経とありました。
うん。渡部昇一氏の「日本の歴史」なのですか、
なんだか、いままで読んできた主張の反復かもしれず、わざわざ買うまでもないかと
ついつい思ってしまっていたのですが、こりゃ二冊ほど買ってみて開いてみたくなりました。なんだか、本も開かずして、決めつけてしまう愚かな自分がありありと見えます。
たまりにたまった産経新聞の古新聞を整理。
こういう時は、気になる連載とか、なんとなくとっておきたいような箇所は遠慮なく捨ててかえりみない。なんせ、古新聞の山を、とにかく処理する、処分することを第一にします。気分はイヤイヤですから、はなっから捨てることが念頭。うん。貴重なご意見をあれよあれよと迷わずに切り捨てるのは、これはこれで気持ちがよいものです。
暑くて何もしたくない時は、こういうのが案外よいかもしれませんね。
情報を片っ端から捨てていくような、振り分け人になった気分。
と、思わなければつまらないばかり。
ところで、4月13日のオピニオン「話の肖像画」は「虹を紡ぐ」と題して渡部昇一氏のインタビュー記事。「日本の歴史」を刊行中の渡部氏に伺っておりました。
そこにオーウェン・バーフィールドの言葉として
「国史というものは、その国の人たちが見る虹のようなものではないだろうか」という一節を引用しておりまして、そのあとにこうありました。
「もう一つ、比喩で支えになっているのは『群盲撫象』というお経の言葉です。昔ある王様が、大勢の目の見えない人に象をなでさせて答えさせた。牙をなでた人は角のようなものだと言い、尾をなでた人は鞭(むち)のようなものだと言い、腹をなでた人は太鼓みたいなものだと言ったという話ですね。これは全部事実なんですけれど、象とはいえない。
―――なでた人には確信があります(質問者の声)
しかし、その確信を主張すれば主張するほど、象自体からは遠ざかるということがあるんじゃないでしょうか。それよりは、象に触れたことはなくても、遠くから見て大まかなスケッチでも描けば、象の形はわかります。傍らに象使いでも描けば、象の大きさまでわかる。そういう話ならば素人の出る幕はあるし、通史も語れると思うんです。」
そうか。『群盲撫象』はお経の言葉なんだ。
というので、鈴木棠三編著「新編故事ことわざ辞典」(創拓社)をひらくと
出典からの引用があり最後に六度経とありました。
うん。渡部昇一氏の「日本の歴史」なのですか、
なんだか、いままで読んできた主張の反復かもしれず、わざわざ買うまでもないかと
ついつい思ってしまっていたのですが、こりゃ二冊ほど買ってみて開いてみたくなりました。なんだか、本も開かずして、決めつけてしまう愚かな自分がありありと見えます。