和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「日暮硯」まで。

2010-08-05 | 他生の縁
「日暮硯」(岩波文庫)
山本七平著「日本人とユダヤ人」(角川oneテーマ21)
徳川夢声著「話術」(白揚社)
「司馬遼太郎が考えたこと14」(新潮社・新潮文庫)
歴史読本編「池波正太郎を読む」(新人物往来社)


ということで、私の興味も5冊まで(笑)。

最初に興味をもったのは、『話術』の第四部附説に書かれていた「日暮硯」の要約でした。
次に、そういえば、イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」で「日暮硯」が登場していたことを思い出して、ベンダサンのその本をひろげてみると、ちゃんと原文を引用しております。ちなみに、そのときも引用文を飛ばして読まずにすませたのですが、今回も読まずに眺めただけ。岩波文庫「日暮硯」では、笠谷和比古氏が、解説のなかでイザヤ・ベンダサンに触れております。うん。この機会にと思って、「日暮硯」をワイド版岩波文庫で読んでみますと、はじまりの箇所が要約や紹介の引用では(「話術」や「日本人とユダヤ人」)どうも省かれているとわかります。その最初の箇所に『鳥籠』が登場しているのでした。それが何なのかという私の疑問も、そこまでと、一人合点。すると司馬遼太郎の池波正太郎追悼文に、なにやらその『鳥籠』に関連する言葉が拾えた。そうして次に池波正太郎著『真田騒動 恩田木工』(「池波正太郎を読む」に全文掲載)を読んでみたというわけです。

どうも、いつもなら、私の興味はここまで(笑)。
せめて、備忘録がてら、経緯のみ残しておきます。
いつか、思い出し、続きを読み始めるかもしれない。
確かに、その際、経緯をすっかり忘れてるのがワンパターン。
そこで、ここでは、備忘録。
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忘れないでね。

2010-08-05 | 短文紹介
梯久美子著「昭和二十年夏、女たちの戦争」(角川書店)の5人の最後に登場していたのが吉武輝子氏。吉武氏は1931年兵庫県出身。作家・評論家とあります。
その語られたなかに、終戦後の岡本先生のことがありました。

「終戦からひと月かふた月もしたらもう、すっかり豹変して、平気で民主主義の素晴らしさを説いている先生が山ほどいる中で、『私には教える資格がない』と言って去っていった。それはやっぱり、誠実なことだったと思うんです。
私たちは、まだ精神のやわらかい、人間形成のまっただ中の時期に、新しい価値観を学ぶことができた。戦後民主主義の恩恵を、たっぷり享受できた世代で、それはとても幸運だったと思います。
戦争が負けて大きな価値観の変化があったけれど、岡本先生のように、同じ目線で私たちに向き合って、苦しみ悩む姿を見せてくれた人もいる。平和とは何か、民主主義とは何か、人間が生きるとはどういうことかを、真面目に学ぼうとする姿勢を、日本人が共有していた時代だったんです。
そういう時代は、実はあまり長くはなかった。朝鮮戦争が始まると、戦前とはまた違った形の管理教育に変わっていったの。レッドパージがあったりしてね。アメリカがもたらした自由を、またアメリカの都合で奪われたというか。ほんとうの民主主義教育がなされたのは、敗戦から朝鮮戦争までなんです。私はありがたいことに、そこの教育を受けているわけ。」(p211)

そういえば、曽野綾子さんも昭和6年生まれ。

「・・私から見れば、石原慎太郎さんも年下だし・・・」
というのは、産経新聞連載の「透明な歳月の光」(2010年4月14日)。
そこに
「・・私が70代で一番冴えたのは、人間観察の度合いだという気がする。・・・『事業仕分け』は他人にやってもらうことではない。あれはごく普通の健全な精神ならば誰でもが行う自浄作用である。・・・そして人は70代で、それらの体験と迷い、成功と失敗、現実と哲学が、もっとも豊かに融合し合う目利きになれる。70代はバカにするどころか、恐ろしい年代だ。私はまだ80代を生きていないので、とりあえず70代までの報告をする。」

うん、1931年生れの曽野綾子さんのことはこのくらいにして、
70代の人間観察ということで、
もう一度、吉武輝子さんの岡本先生へともどります。
歴史と修身を教えられていた岡本先生のことを吉武さんはこう語っております。
「50代くらいの、それはそれは厳しい女の先生で、『女の子は女らしくあそばせ』『みなさんには、よい妻、よい母になっていただかなければなりません』が口癖。・・・いつも自信満々で授業をしていた岡本先生だったけれど、教科書の墨塗りを指示する声は、消え入るように小さかった。『ごめんなさい、○行目から○行目まで消してください』『すみません、○ページは全部消してください』こんな調子がずっと続きました。先生の『ごめんなさい』『すみません』を何度聞いたことでしょう。ふと声が途切れたと思ったら、先生が顔をおおっているのね。教室中がしーんとなった中に、忍び泣く声が聞えてきて・・・
それから10日ほどして、岡本先生は学校を辞めて故郷に帰っていきました。私は、数人の友人たちと一緒に、東京駅に先生の見送りに行ったんです。・・・・人波をかき分けて駆け寄った私の手を握って、先生は『吉武さん、批判のない真面目さは、悪をなします。そのことを忘れないでね』と言いました。私、あの言葉を生涯忘れない。いい先生に出会ったと思います。」
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