Tsubuteさんのブログ「読書で日暮し」。
その2010年8月14日は『村井弦斎の「料理の心得」』と題して、
終りに料理の歌を引用しておりました。
それが、私に興味深かったのです。
なお、その日のブログには、Hisacoさんのコメントもありまして、
なるほど、なるほど、と読まさせていただきました。
それを読んでから、私が思い浮かべたのは幸田文でした。
以下はそれについて。
青木玉編「幸田文台所帖」(平凡社)に「鮭の子」という文があります。
そこに、「口づきのいい言葉」という箇所がありました。途中から引用。
「 はららごは羅ゴ羅(らごら)に似たる名なるかな
あれはしゃけの子これは釈迦の子
たしかこんな歌だったとおぼえていますが、なんによらず口調よくしておぼえると覚え易い、といって若い時父親が教えてくれたのです。うお身、鳥かわなどというのです。魚は身から焼き、鳥をやくのは皮からするのがいい、というわけですが、口づきのいい言葉で教えると、一度で忘れなくなるというのです。むかしから伝わる生活の智恵です。はららごの歌は父の歌だったとおもいますが、つまり父親からしてが鮭の子を愛していたのです。そして、はららごと呼べというのです。ですから私はかなりいつまでも、はららごとは鮭の子のことを上品にいうのだ、とおもっていました。字引をひくと、魚類の産出まえの卵塊をさしていうとありますから、鮭にかぎることはないかもしれません・・・」(p189~190)
今の時期に、ふさわしいようなのが「幸田文台所帖」の「夏の台所」でした。そこに、こんな箇所があります。
「・・・それから夏は人の舌が飽きっぽくなってくることも、台所人をあえて『つとめ』させることになっている。炎天の庭へ七輪を持ち出して粉炭をおこす。粉炭といっても、炭を切るときに出るあらい欠け炭である。霜ふりの薄切り肉を好みに五分か十分、醤油にひたしておいて、その粉炭の火勢のたった上で一気に焼いて、まっ黄色なからしを添える。炎天下で焼いている人はもちろん汗だくだし、縁側へ出した食卓でたべている人も汗である。しかし、これだと暑さにうんざりした人もきっと一度はたべる。だが二度三度目からは飽きる。そういうふうに台所人の努力など、にべもなく平気で飽きられてしまうのが夏である。」(p135)
ここに肉に「まっ黄色なからしを添える」とあります。
ブログ「読書で日暮し」で引用されていた、
弦斎の「料理心得の歌」にこんなのがありました。
合ひ物は大豆に昆布
芋にバタ
肉にはからし
魚には酢
さて、「幸田文台所帖」では、夏から秋へとつながっています。
「活気」という文でした。そのはじまり。
「涼風がたつと、バテ気味だった食欲が盛りかえしてきます。それにこたえるために、主婦は食事ごしらえに心を配ります。秋は食べる人も、こしらえる人も、なにかおいしいものをと思う季節です。・・・・・
料理の材料にしゅんがあるように、味にも最もうまいという時間があります。焼きざましがまずいのは、時間が外れているからです。ですから、ささやかな食卓でもせめて精一杯おいしく食べようというには、許せる範囲の行儀わるさなら目をつぶって、食べ時を逃がさないほうが、私は好きです。これからの季節もの、さんまや鯖の塩焼など、一番おいしい食べかたは七輪のそばで、ちょんつくばいにしゃがんで、焼きたてをすぐ食べることです。・・・・」(p146~147)
弦斎の「料理心得の歌」から、もうひとつ。
弱き火に焼かば魚の味抜けむ
強き遠火に限るとぞ知れ
これが、幸田文さんの対談では、いかにも歯切れがよくて伝わってくるのでした。どこにあったかというと、「幸田文対話」(岩波書店)。
「今は、もう炭がなくなったでしょ。あたし、鯖が出て来る時期になると、しみじみ子供の時が懐かしくなるんです。父がね、鯖って下魚(げうお)だけれど、旬には塩焼きにして、柚子の絞りしるをかけると旨いと言うんですね。焼く時には、庭とかお勝手の外へ、七輪を出すでしょ。あれ、トロトロした火で焼いていると旨くないんですよね。炭がうんとおこったところでやんなくちゃいけない。それで、パーッと粗塩をふって焼く。そして、ジブジブジブジブッてまだ脂がはじけているうちを、大いそぎで父のお膳にもっていく。庭に柑橘がいろいろあるでしょ。それを二つに切って添えて行く。そうすると父は書物を読んでいても、さっとやめて食べてくれた。鯖の塩焼きは焼きあげたそのいっときの熱いうちが勝負なんです。
まだ若くて子供みたいなもんでしたけど、一生懸命に鯖を焼いて、駆け出して父のところへ持っていくと、父がすぐ食べてくれた。・・・・あれはやっぱり、台所する者のひとつの喜びだったんでしょうね。焼いている間じゅう神経集中して、わあって飛んで持ってって、片方が食べてくれる。それが、季節というものであり、旨さというものじゃないでしょうかね。それを今はサービスしたなんて言うんですってね。」(p346~347)
まずは、Tsubuteさんのブログ「読書で日暮し」。
そして、コメントされたhisakoさん。
それに、つられて、引用させていただきました。
ここで、未読の黒岩比佐子著「『食道楽』の人村井弦斎」を注文。
その2010年8月14日は『村井弦斎の「料理の心得」』と題して、
終りに料理の歌を引用しておりました。
それが、私に興味深かったのです。
なお、その日のブログには、Hisacoさんのコメントもありまして、
なるほど、なるほど、と読まさせていただきました。
それを読んでから、私が思い浮かべたのは幸田文でした。
以下はそれについて。
青木玉編「幸田文台所帖」(平凡社)に「鮭の子」という文があります。
そこに、「口づきのいい言葉」という箇所がありました。途中から引用。
「 はららごは羅ゴ羅(らごら)に似たる名なるかな
あれはしゃけの子これは釈迦の子
たしかこんな歌だったとおぼえていますが、なんによらず口調よくしておぼえると覚え易い、といって若い時父親が教えてくれたのです。うお身、鳥かわなどというのです。魚は身から焼き、鳥をやくのは皮からするのがいい、というわけですが、口づきのいい言葉で教えると、一度で忘れなくなるというのです。むかしから伝わる生活の智恵です。はららごの歌は父の歌だったとおもいますが、つまり父親からしてが鮭の子を愛していたのです。そして、はららごと呼べというのです。ですから私はかなりいつまでも、はららごとは鮭の子のことを上品にいうのだ、とおもっていました。字引をひくと、魚類の産出まえの卵塊をさしていうとありますから、鮭にかぎることはないかもしれません・・・」(p189~190)
今の時期に、ふさわしいようなのが「幸田文台所帖」の「夏の台所」でした。そこに、こんな箇所があります。
「・・・それから夏は人の舌が飽きっぽくなってくることも、台所人をあえて『つとめ』させることになっている。炎天の庭へ七輪を持ち出して粉炭をおこす。粉炭といっても、炭を切るときに出るあらい欠け炭である。霜ふりの薄切り肉を好みに五分か十分、醤油にひたしておいて、その粉炭の火勢のたった上で一気に焼いて、まっ黄色なからしを添える。炎天下で焼いている人はもちろん汗だくだし、縁側へ出した食卓でたべている人も汗である。しかし、これだと暑さにうんざりした人もきっと一度はたべる。だが二度三度目からは飽きる。そういうふうに台所人の努力など、にべもなく平気で飽きられてしまうのが夏である。」(p135)
ここに肉に「まっ黄色なからしを添える」とあります。
ブログ「読書で日暮し」で引用されていた、
弦斎の「料理心得の歌」にこんなのがありました。
合ひ物は大豆に昆布
芋にバタ
肉にはからし
魚には酢
さて、「幸田文台所帖」では、夏から秋へとつながっています。
「活気」という文でした。そのはじまり。
「涼風がたつと、バテ気味だった食欲が盛りかえしてきます。それにこたえるために、主婦は食事ごしらえに心を配ります。秋は食べる人も、こしらえる人も、なにかおいしいものをと思う季節です。・・・・・
料理の材料にしゅんがあるように、味にも最もうまいという時間があります。焼きざましがまずいのは、時間が外れているからです。ですから、ささやかな食卓でもせめて精一杯おいしく食べようというには、許せる範囲の行儀わるさなら目をつぶって、食べ時を逃がさないほうが、私は好きです。これからの季節もの、さんまや鯖の塩焼など、一番おいしい食べかたは七輪のそばで、ちょんつくばいにしゃがんで、焼きたてをすぐ食べることです。・・・・」(p146~147)
弦斎の「料理心得の歌」から、もうひとつ。
弱き火に焼かば魚の味抜けむ
強き遠火に限るとぞ知れ
これが、幸田文さんの対談では、いかにも歯切れがよくて伝わってくるのでした。どこにあったかというと、「幸田文対話」(岩波書店)。
「今は、もう炭がなくなったでしょ。あたし、鯖が出て来る時期になると、しみじみ子供の時が懐かしくなるんです。父がね、鯖って下魚(げうお)だけれど、旬には塩焼きにして、柚子の絞りしるをかけると旨いと言うんですね。焼く時には、庭とかお勝手の外へ、七輪を出すでしょ。あれ、トロトロした火で焼いていると旨くないんですよね。炭がうんとおこったところでやんなくちゃいけない。それで、パーッと粗塩をふって焼く。そして、ジブジブジブジブッてまだ脂がはじけているうちを、大いそぎで父のお膳にもっていく。庭に柑橘がいろいろあるでしょ。それを二つに切って添えて行く。そうすると父は書物を読んでいても、さっとやめて食べてくれた。鯖の塩焼きは焼きあげたそのいっときの熱いうちが勝負なんです。
まだ若くて子供みたいなもんでしたけど、一生懸命に鯖を焼いて、駆け出して父のところへ持っていくと、父がすぐ食べてくれた。・・・・あれはやっぱり、台所する者のひとつの喜びだったんでしょうね。焼いている間じゅう神経集中して、わあって飛んで持ってって、片方が食べてくれる。それが、季節というものであり、旨さというものじゃないでしょうかね。それを今はサービスしたなんて言うんですってね。」(p346~347)
まずは、Tsubuteさんのブログ「読書で日暮し」。
そして、コメントされたhisakoさん。
それに、つられて、引用させていただきました。
ここで、未読の黒岩比佐子著「『食道楽』の人村井弦斎」を注文。