「読者からの手紙」ということで、
3冊から引用してみます。
ちょうど吉武輝子著「女人吉屋信子」(文芸春秋)を開いていたら、最初の方にこうありました。
「明治41年、信子は栃木高女に入学した。・・・
信子を元気づけてくれたのは、全国にちらばっている少女投稿家同士の友情だった。少女投稿家全盛時代の『少女世界』の読書欄には『○○高女の×子様、お振い遊ばせ』といったたぐいの文字が目だって多い。何度も賞をとるいわば少女投稿家のスターには、それぞれ投稿家の仲間の応援団がついていて、声をかぎりに『お振い遊ばせ』とはげまし合っていたのである。信子もスターのひとりだった。『栃木高女の信子様、お振い遊ばせ』。こうした文字を見つけるたびに、ともすればマサの仕打ちに、女のよさを見失いがちになる信子にも、女の友情を信ずる思いが蘇ってくる。」(~p61)
この「お振い遊ばせ」というのが、印象に残ります。
ということで、あと2冊。
常盤新平著「池波正太郎を読む」(潮出版社)に
池波正太郎氏との対談が掲載されておりました。
そのひとつは、「『秘伝の声』をめぐって」というもの。
それは、新聞連載された小説「秘伝の声」を常盤さんが読んでの対談でした。
池波「中年以上の、年配の方たちから随分とお手紙をいただきました。夕刊が配達されるのを、玄関先で足ぶみをしながら待っている、こういう気分は久しぶりだ、という手紙を地方のおばあさんからいただいたりした。ありがたいことです。」
常盤「やっぱり、そうでしたか。正直のところ、私の場合は先へ進むのが惜しいような、もったいないような気持で読み進みました。新聞の読者は、一回一回が短いので、逆に早く先を読みたいと思っていたのですね。」
池波「新聞小説を書いても、近ごろの読者は、めったに手紙をくれませんからね。あれだけ全国各地の方がたからお手紙をいただいたのは、初めてのことじゃないかな。」(p107)
なんだか、池波正太郎著「秘伝の声」を読みたくなるのでした。いつかね(笑)。
もう一冊は、水木しげる著「ねぼけ人生」。
その前に、ちょっと脇道。
そういえば、探していた本
曽野綾子著「日本財団9年半の日々」(徳間書店)が出てきました。
そこに、こんな箇所。
「97年から年に一度、日本財団が若手官僚やマスコミ関係者と共にアフリカを訪ねる『世界の貧困を学ぶ旅』の始まりでした。・・・世界には、生きられない、食べられない、動物に近いような生活をしている、という人たちがどれほどいることか。それに比べると、今の日本人はほんとうに甘いんです。貧しさを知らないと、日本は間違った方向へ行ってしまうような気がして、将来の日本を動かしていく若者たちを連れていって見せようと思ったのです。」(p177)
さて水木しげるです。その本の第3章「貧乏」に、こんな箇所がありました。
それは、水木さんが貸本時代の頃のことでした。
「・・・『妖怪伝』は、第一回はまだよかったが、第二回が極端に売れなかった。兎月書房は、『妖怪伝』を廃刊することに決めた。僕は失職である。
報われない努力というものもいろいろあるが、僕が苦労した『妖怪伝』二冊で手に入れたものは、二万円ばかりの金と失職だったのだ。世の中の仕組みに対するイカリが燃えあがったが、どうすることもできない。イカリは自分を苦しめるだけのことだった。仕事もなくモンモンとしていると、兎月書房からハガキが来た。出向いてみると、熱心な読者が長文の手紙をよこし、『妖怪伝』はなくなっても、『鬼太郎』だけは傑作だから何とか続けてくれ、と強く訴えてきたという。兎月のオヤジは、その熱意にうたれ、『妖怪伝』の後釜として『墓場鬼太郎』という怪奇もの短編集を出すことにしたと言うのだ。短編集の中心になるのは、もちろん、僕の『墓場鬼太郎』である。人間の運命というものは、本当にさまざまな回路から成り立っているらしい。この熱心な読者の手紙によって、鬼太郎はよみがえることになり、後の僕の代表作の一つともなるのである。
しかし、鬼太郎が継続できたからといって、僕の生活がよくなったというわけではなかった。『妖怪伝』そして『墓場鬼太郎』の頃は、昭和34年で、貸本界は全体的に見れば、ぼつぼつかげりが見えだした程度だったが、兎月書房は、もともと小さい貸本界の中でも小出版社だったから、既に全面的に不景気になっていた。そんな兎月でも、僕としては、他の出版社では仕事をもらえないからやるわけだが、『墓場鬼太郎』第一巻で三十頁、続いて第二巻で百頁、第三巻で百頁と描いても、兎月書房は、ビタ一文払ってくれない。原稿料は、二十万円近くたまっていた。・・・」(~p196)
3冊から引用してみます。
ちょうど吉武輝子著「女人吉屋信子」(文芸春秋)を開いていたら、最初の方にこうありました。
「明治41年、信子は栃木高女に入学した。・・・
信子を元気づけてくれたのは、全国にちらばっている少女投稿家同士の友情だった。少女投稿家全盛時代の『少女世界』の読書欄には『○○高女の×子様、お振い遊ばせ』といったたぐいの文字が目だって多い。何度も賞をとるいわば少女投稿家のスターには、それぞれ投稿家の仲間の応援団がついていて、声をかぎりに『お振い遊ばせ』とはげまし合っていたのである。信子もスターのひとりだった。『栃木高女の信子様、お振い遊ばせ』。こうした文字を見つけるたびに、ともすればマサの仕打ちに、女のよさを見失いがちになる信子にも、女の友情を信ずる思いが蘇ってくる。」(~p61)
この「お振い遊ばせ」というのが、印象に残ります。
ということで、あと2冊。
常盤新平著「池波正太郎を読む」(潮出版社)に
池波正太郎氏との対談が掲載されておりました。
そのひとつは、「『秘伝の声』をめぐって」というもの。
それは、新聞連載された小説「秘伝の声」を常盤さんが読んでの対談でした。
池波「中年以上の、年配の方たちから随分とお手紙をいただきました。夕刊が配達されるのを、玄関先で足ぶみをしながら待っている、こういう気分は久しぶりだ、という手紙を地方のおばあさんからいただいたりした。ありがたいことです。」
常盤「やっぱり、そうでしたか。正直のところ、私の場合は先へ進むのが惜しいような、もったいないような気持で読み進みました。新聞の読者は、一回一回が短いので、逆に早く先を読みたいと思っていたのですね。」
池波「新聞小説を書いても、近ごろの読者は、めったに手紙をくれませんからね。あれだけ全国各地の方がたからお手紙をいただいたのは、初めてのことじゃないかな。」(p107)
なんだか、池波正太郎著「秘伝の声」を読みたくなるのでした。いつかね(笑)。
もう一冊は、水木しげる著「ねぼけ人生」。
その前に、ちょっと脇道。
そういえば、探していた本
曽野綾子著「日本財団9年半の日々」(徳間書店)が出てきました。
そこに、こんな箇所。
「97年から年に一度、日本財団が若手官僚やマスコミ関係者と共にアフリカを訪ねる『世界の貧困を学ぶ旅』の始まりでした。・・・世界には、生きられない、食べられない、動物に近いような生活をしている、という人たちがどれほどいることか。それに比べると、今の日本人はほんとうに甘いんです。貧しさを知らないと、日本は間違った方向へ行ってしまうような気がして、将来の日本を動かしていく若者たちを連れていって見せようと思ったのです。」(p177)
さて水木しげるです。その本の第3章「貧乏」に、こんな箇所がありました。
それは、水木さんが貸本時代の頃のことでした。
「・・・『妖怪伝』は、第一回はまだよかったが、第二回が極端に売れなかった。兎月書房は、『妖怪伝』を廃刊することに決めた。僕は失職である。
報われない努力というものもいろいろあるが、僕が苦労した『妖怪伝』二冊で手に入れたものは、二万円ばかりの金と失職だったのだ。世の中の仕組みに対するイカリが燃えあがったが、どうすることもできない。イカリは自分を苦しめるだけのことだった。仕事もなくモンモンとしていると、兎月書房からハガキが来た。出向いてみると、熱心な読者が長文の手紙をよこし、『妖怪伝』はなくなっても、『鬼太郎』だけは傑作だから何とか続けてくれ、と強く訴えてきたという。兎月のオヤジは、その熱意にうたれ、『妖怪伝』の後釜として『墓場鬼太郎』という怪奇もの短編集を出すことにしたと言うのだ。短編集の中心になるのは、もちろん、僕の『墓場鬼太郎』である。人間の運命というものは、本当にさまざまな回路から成り立っているらしい。この熱心な読者の手紙によって、鬼太郎はよみがえることになり、後の僕の代表作の一つともなるのである。
しかし、鬼太郎が継続できたからといって、僕の生活がよくなったというわけではなかった。『妖怪伝』そして『墓場鬼太郎』の頃は、昭和34年で、貸本界は全体的に見れば、ぼつぼつかげりが見えだした程度だったが、兎月書房は、もともと小さい貸本界の中でも小出版社だったから、既に全面的に不景気になっていた。そんな兎月でも、僕としては、他の出版社では仕事をもらえないからやるわけだが、『墓場鬼太郎』第一巻で三十頁、続いて第二巻で百頁、第三巻で百頁と描いても、兎月書房は、ビタ一文払ってくれない。原稿料は、二十万円近くたまっていた。・・・」(~p196)