和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

愛だよ。愛。

2010-08-12 | 他生の縁
篠田一士著「三田の詩人たち」。
その講談社文芸文庫の解説は、池内紀氏で題は「大読書人の読書術」。
その最後の方にこんな箇所がありました。

「プロフェッショナルな批評家として三十年を過ごした人だが、その反面でたえずアマチュア性を大切にした。中心になって編集した『世界批評大系』(筑摩書房)の解説を、『批評は作品への愛に始まり、作品への愛で終わる』といった意味の言葉で書き出しているが、愛なり感動を批評の根底に置くという姿勢は、誇らかなアマチュア宣言にもひとしいだろう。『三田の詩人たち』の語り手は『僕』である。人前で話したからこうなったわけではなく、篠田一士はつねに『僕』あるいは『ぼく』で書いた。『私』あるいは『わたし』の中性的な主語のほうがふさわしいような場合でも、やはり『僕』で通した。・・・つまりは、終始ゆずらなかったアマチュアリズムとひびき合う。」(p208)


ところで、プロフェッショナルな批評家でなくとも、
作品への愛を語るのを、読めるのは嬉しいものです。
と、こうして暑い8月のさなかに、思ったりします。
常盤新平著「池波正太郎を読む」(潮出版社)を読んでいるときに、そんなことを感じておりました。ということで、「池波正太郎を読む」から引用していきます。

「私は数年前まである大学で時間講師で新入生に英語を教えていたとき、夏休みには『鬼平犯科帳』を読むことをすすめた。本を読まない学生諸君に『鬼平犯科帳』でもって、読書の楽しみを知ってもらいたかった。夏休みが終って、教室にもどってきた学生の何人かから、『「鬼平」はおもしろいですねえ』といわれたときは、私もうれしかった。読書が楽しいものであることを彼等ははじめて知ったのである。
また、あるとき、『鬼平』や『剣客商売』や『仕掛人・藤枝梅安』を病気見舞に持参して、たいへんよろこばれたことがある。入院中のその友人は、食欲もなく、前途を悲観していたのだが、先生の小説に出てくる、数々の素朴な、おいしそうな食べもののシーンを読んで、早くなおって、退院したくなった、と私に語ってくれた。『鬼平』は読者に慰めと元気をあたえてくれるのである。
それは、血なまぐさい事件のあいだに、江戸の町をぶらぶらしたり、酒を飲んだり、朝飯を食べたりという平凡な日常生活が描かれているからだ。日常生活がいかに大切であるかを先生はなにげなく説かれているのだ。」(p26~27)

「『鬼平』を愛読する読者に私は親近感をおぼえる。そういう人となら、話をしても、酒を飲んでも、食事をしても、楽しいのではないかと思う。・・」(p28)


「私はたいてい疲れているときに、池波さんを読んでいる。私の躰が求めていて、鬼平や梅安や小兵衛で、私はたぶん疲れを癒しているのだろう。」(p137)


そして、「晴れた昼さがりの先生」(p182)では、
めずらしく、池波先生から「会いたい」という伝言をもらう話なのでした。
それは、常盤氏の四面楚歌を聞き及んだ先生の伝言だったようなのです。
それは、まあ、読んでのお楽しみ。
コメント
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