和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

雪ニモ夏ノ暑サニモ。

2013-01-18 | 短文紹介
宮沢賢治が亡くなったのは、
昭和8年9月21日。
その年の、3月3日午前2時31分。
三陸沿岸に大津波が襲いました。

「賢治は、このときも病床に伏していたが、津波襲来を知っていた。東京に住む大木實という詩人から震災見舞いの便りが来て、それへの返信ハガキが発見されている。
『この度はわざわざお見舞をありがたう存じます。被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。私共の方野原は何ごともありません。何かにみんなで折角春を待ってゐる次第です。まづは取り急ぎお礼乍ら』
日付が『三月七日』とある。大津波から四日後のことである。
まさか実際に三陸沿岸のどこかに出かけてみたわけではないだろうが、『海岸は実に悲惨です』と書いているところを見ると、地元の新聞やラジオ放送などで情報を集め、三陸沿岸の被災地のことを気にかけていたようすが窺い知れる。
明治大津波から37年、冷害と旱魃に苦しみもがいてきた東北の、わけても三陸沿岸の村々は、息の根を止められるかのように、またしても壊滅的被害に見舞われた。
・・・・・・
賢治の死んだのは、それから半年後の9月21日。・・・・
死後、遺品の鞄のなかから黒い手帳が見つかり、『雨ニモマケズ』の詩が見出された。翌年の『岩手日報』で没後一周年の企画としてこの詩がはじめて活字になって発表されると、岩手の人びとはわがことのように詩の心をうけとめ、畑に鍬をいれながら、台所で家事をしながら、海岸でワカメや昆布を干しながら、あちこちで口ずさむようになった。」(p27~28)


以上は
山文彦著「大津波を生きる」(新潮社)より引用しました。
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