和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

シンプルで分かりやすく。

2013-01-24 | 地域
尋常小学校六年・牧野アイさんの作文「津波」は、
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の「子供の眼」(p120~141)で取り上げられておりました。

東日本大震災のあとに出た一冊に、
文芸春秋8月臨時増刊号「つなみ 被災地のこども80人の作文集」がありました。
その編者・森健氏は「はじめに」で、こう書いております。

「・・ヒントになったのが、故吉村昭氏の『三陸海岸大津波』だ。同書は過去三度の津波被害を丹念な取材で記録した作品だが、その中に『子供の眼』という章がある。・・震災の体験は、けっして一括りにはできないものだ。・・それは数字では伝わらない。いかにこの地震と津波の凄まじさや怖さを伝えるか。それを考えたとき、『子供の眼』つまり震災を体験した子供たち自身の手で作文を書いてもらうことこそ一番ではなかと思い至った。・・」

ちなみに、この本は、のちに大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しております。

森健氏はつぎに
「『つなみ』の子どもたち 作文に書かれなかった物語」(文芸春秋)を出しております。
驚いたことには、その終章の前に、牧野アイさんで一章があったことでした。
東日本大震災の際に荒谷(牧野)アイさんは89歳。
森氏は、被災地の消息情報を検索している際に、その名前を見つけたのでした。
その経過は、はぶいて、
アイさんの次女・育子さんの言葉を引用してみます。

「『うちはどこに行くにも【必ず津波のことを気にしろ】って、おばあちゃんから言われていたんです。もうずーっと。どこかに行ったら、必ず津波から逃げる避難の道を確認する。それは荒谷の家では厳しく言われていたことなんですよ』
つまり、荒谷の家では七十年以上もの間、日常的に津波への警戒をしてきたということだった。それが日常生活にまで染み付くよう、母は子どもたちに教えていた。」(p244)

「母はこの間六月の頭に九十歳になりました。耳も遠いですし、すこしぼんやりすることもあるんです。でも、津波の取材は決して断らないんです。津波を語るのは母にとって責務のような気持ちがあるんだと思います。それは私たち母の子どもでもそうなんです」(p245)

つぎに四女・荒谷栄子さんの言葉を引用してみたいのでした。
文芸春秋2012年三月臨時増刊号「3・11日本人の再出発・・・」
この座談に、荒谷栄子さんが登場して語っているのでした。
そこを、引用してみます。

荒谷】 私は岩手県宮古市の田老で小学校の校長をしております。あの日、校長室でひとり、卒業式や中学校の閉校に関わることを考えておりました。突然、ドーンッと地震が来ました。・・・母親は昭和8年の大津波を体験しておりまして、彼女から常々聞かされてきたことが、今回の私の行動に大きく作用したと思っております。・・・(p40)

荒谷】 ・・・数年前から、津波のための避難所(シェルター)をつくったり、マニュアルをつくっては見直したりと、教育委員会の指導の下でやってきたわけです。だけど今回、私の中では、マニュアルは関係なかった。あ、これは津波が来る、子どもの命を守らなきゃと、子どもたちを集めて何も持たせないであらかじめ決めておいた高台に避難させました。ただ、雪が降って寒かったので、ジャケットを一枚はおらせて。小・中学校併設校だったので、中学生と小学生をセットにした形で、『中学生たち、小学生を頼むよ』と。二十名に満たない小規模校だったので、そうやって高台に避難させました。マニュアルでは車は使うなとか、それから学校の帳簿を持ち出せ(笑)とか、細かく書かれていたんですけれども、そういうのは一切頭にはありませんでした。
これは私自身の生育歴にも関係していると思います。・・・・私たちは母親のお腹の中にいるときから、『地震が来たら、津波が来る、だから高台に逃げなさい、絶対戻ってはいけない』 ――この四点セットで、実にシンプルで分かりやすく教えられました。」(~p57)


火山・地震学者の鎌田浩毅氏は、
ビートたけしとの対談で、こう指摘しておりました。
最後は、そこから引用。


鎌田】 ややこしいことはいいから、『高いところへ逃げろ』とか、簡単な標語でいいんです。それを知っているかいないかで明暗が分かれます。

コメント
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